404 NOT FOUND | SADO-KOI https://sado-koi.ebb.jp 佐渡・恋・来い Wed, 29 Nov 2023 00:36:08 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.3 https://sado-koi.ebb.jp/wp-content/uploads/2018/12/cropped-rogo-saito-32x32.png 404 NOT FOUND | SADO-KOI https://sado-koi.ebb.jp 32 32 Enjoy Run Around All Stations of the JR Yamanote Line https://sado-koi.ebb.jp/yamanote/ https://sado-koi.ebb.jp/yamanote/#respond Fri, 06 Dec 2019 05:55:12 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=2665 おのぼりさんRunのススメ

おのぼりさラン2015年後半から出張時の持ち物に”ラン靴”が加わり、あこがれだった皇居ランや お台場ランを経験させてもらいました。

そして、「山手線一周ラン」の存在を知り 挑戦してみました。
ガーミンコネクトに書き写した池袋スタート(外回り)のコース総距離が40.34km。
楽勝と臨んだ初山手線一周ランでしたが、不甲斐ない結果となりました。

山手線一周ラン(初挑戦)

Run後のガーミン735が示す軌跡距離は45.04kmでした。

言い訳
【線路沿いを走れば問題ないと思っていた】
【作製したコースをガーミンにしか移さなかった】
【コンビニには必ずトイレがあると思っていた】

スタート直後の池袋六又で早くも迷子状態になり、向原でもコースアウトしてしまいました。ガーミンのナビ表示は、曲がった後に曲がりなさいと教える始末。今回の作成コースをGoogleマップに移さなかったことを改めて後悔しました。ガーミンの白地図コースナビでは無理でした。

大塚駅の看板を見て一安心。その後 ガーミンのコース外れアラートは無視し、スマホのGoogleマップを頼りに進みました。

鶯谷を過ぎてからは線路沿いに走れるのでスマホで現在地を確認しなくても良く安心感がありました。

補給食の調達で入った セブンイレブン浜松町1丁目中央店に感激しました。地下に広めのイートインスペースとトイレがあり、便利に利用させていただきました。

品川駅まで順調でしたが、新八ツ山橋交差点で ちょっと迷いました。
記憶にあるコースは たしか第一京浜を進むはず‥。しかし、下り坂で見える第一京浜は線路より左に反れています。Googleマップで見る大崎駅は若干右方向。直進(第一京浜)か? 右折(ソニー通り)か?
結局ショートカット気味のソニー通りを選択し大崎駅へ。

大崎駅に着いたものの画像に納めたい駅の看板が見つけられずウロチョロしました。結局、見当たりません⁉ ホームの看板を撮影して割愛しました。

渋谷駅では工事中のため目視できる場所に進めません。
階段を上ったり下りたり、同じ場所を行ったり来たり。急がば回れを実感しました。

原宿駅の看板を撮影後、スマホの電池残量が残りわずかです。
モバイルバッテリーのケーブルがポーチの中にない。ケーブル忘れに気づきました。原宿のお店で探したが見つけられず、ローソン北参道駅前店で乾電池式充電器を購入し、事なきを得ました。

山手線一周ラン

後で、ガーミンの軌跡を確認したらローソン北参道駅前店と新宿駅でGPSがすごく乱れていました。ローソンは外でちょっと休憩しただけ、新宿駅も個人的にはスムーズに通過したと思うのですが‥‥。

Run Around All 30 Stations of the Yamanote Line

「山手線一周ランコース」を更新しました。(一周39.13km)

赤マーカが駅となっており、高輪ゲートウェイ駅も入れ30個あります。
各駅の赤マーカーには次の駅名と距離数も入れました。

緑マーカーがイートインスペースとトイレのあるコンビニで10ヶ所。
緑のトイレマークがトイレがあるコンビニ等で29ヶ所です。

次回は、このコースをGoogleマイマップに入れ、スマホで確認しながら山手線一周ランを満喫したいと思います。

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トレジャーハンター 消えた佐渡産銀を追え! https://sado-koi.ebb.jp/silver1/ https://sado-koi.ebb.jp/silver1/#respond Fri, 11 Jan 2019 07:30:26 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=1492 鶴子銀山の産銀はいずこへ

トレジャーハンター消えた佐渡産銀を追え

橘正隆(1959)『河崎村史料編年志 佐渡島中世迄のおいたち』河崎公民館.の552ページに「藤田丹波覚書」が載っており、佐渡産銀・6貫目入り×600箱を積んだ船が福井県で難破したとあります。

6貫目×600×3.75㎏変換=13,500㎏???

銀1g60円とすると、8億円???

ありえない内容がどうしても気になり、図書館で「藤田丹波覚書」を調べてもらいました。

藤田丹波覚書

図書館では、いとも簡単に『上越市史別編5』の148ページや『大日本地名辭書』の4505ページ、『山形県史 資料篇 第5 鶏肋編 上』 835ページに載っている旨を教えていただきました。

???何故、ページ数まで???

答えはGoogle検索でした。キーワードを入力し、「検索」→「もっとみる」→「書籍」をクリックするとGoogleブックスが表示され、Googleに登録されている書籍の内容がヒットするとのこと。もう一つ教えていただいたのが、国立国会図書館サーチ。日本国内で出版された すべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館だそうです。図書館の方曰く、Googleブックスでヒットしたらラッキーぐらいに思っていたほうが良いとのことです。それにしても目から鱗の出来事でした。

さっそく『上越市史別編5』は図書館で借りました。146ページから「覚」として14項目あります。

出典上越市史編さん委員会(1999)『上越市史 別編5』上越市,

覚    藤田丹波

  • 一、景勝小出と申城御せめ候時、ゆミの庄へ御はたらき候、城より取合一戦御座候、拙者拾六の年鑓仕り、~
  • 一、荒城と申しろせめ申時、十七にて一番高名仕り候、~
  • 一、池田と申城ニ山しき門兵衛と申もの~
  • 一、八月廿日ニゆミの庄の城へ佐々蔵介越前・加賀~
  • 一、次ノ三月四日ニ蔵介殿押よせつけ城五ツ仕候、~
  • 一、景勝境ノ城せめ申さるゝ時、~
  • 一、小田原落城ノ時庄内みさきのしたに、~
  • 一、もかミ屋ちの城ニ下対馬ろう城~
  • 一、四月廿四日ニ出羽拾弐郡の人数を以亀ヶ崎をせめ~
  • 一、関ヶ原御合戦の年七月十九日ニ~
  • 一、小関賀左衛門と申もの子を越後へ~
  • 一、さかい忠介と申者おやおぢ~
  • 一、景勝領分の米舟ニ仕り石見国湯津へ参候、~
  • 一、次ノ年 景勝上米舟六拾そう余り越前の浦々にそんさし申候、右ノ舟に佐渡へ銀子六貫目入の箱百あまりのほり申候、越前浦にて地の者かねも米も取ちらし、其上うわのり舟頭共ニはたかニ仕り候、拙者ハ、新保ト申津へ船拾そうつき申候、米弐千石・らう・うるし・塩引まで蔵入仕り、其夜舟十そうなから打わり申候、地下の者三百計にておしかけ蔵をやふりて可申由承り、きもいりおとな四五人のおんなを証人ニ取、鑓てつほうにて舟衆百人あまりめしつれ蔵の番をさせ、直江山城かたゑ飛脚つかい申候へハ、山城方より治部殿へ使者を以被申候へハ、神五兵衛・間渕伝左衛門両人を被使、ぬれ米なと被相返候、時々の相場ニ銀子請取申山城殿へ披露申候へハ、両年の間舟手の手柄無比類由対馬方へ被申越、拙者ニごふく壱重路銭ニ銀五枚拝領申候、此時 御所様より越前浦々へ御人数被遣御せんさく候得共、米もかねもいれ不申候問、所々の代官肝煎ともニ百人あまりはた物ニ御上ケ申候、此儀無隠候間、不入事にて候得共、天下の御さはきの時分ニ候間書付申候、弓矢の事ニて候ハ、天下ニ名を上ケへきときと存申候、此外ニもかき可申事候得共ことなかく御さ候間、連々御聞可被成候

      元和八年霜月廿八日  藤田丹波

 

 

また、『大日本地名辭書』には、酒田港の記述として載っていました。

出典吉田東伍(1907)『大日本地名辭書』冨山房,  (国立国会図書館デジタルコレクション)

元和八年藤田丹波覚書云、(略)
次の年、景勝上米舟六十そう餘、越前の浦にて損し申候、右の船に、佐渡銀子六貫目入の箱六百餘登申候處、浦の者共銀も米も取散し、其上、上乗船頭共迄はたかに仕候、拙者は、新保と申津へ船十そうつけ、米二千石、らう、うるし、鹽引迄蔵入仕り、其夜十そうながら打破申候所、地下の者三百許押懸蔵を破可申由承、肝煎おとな四五人の女を證人に取、鑓鉄砲にて、船衆百人余召連、蔵の番をさせ、直江山城方へ飛脚つかひ、山城方より治部殿へ被申上候へば、御所様より、越前浦々へ御人数被遣、御せんさく、所々の代官肝煎とも百人餘はたものに上候。〔大泉叢志〕

藤田丹波覚書

大日本地名辞典・藤田丹波覚書

河崎村史料編年志P552

河崎村史料編年志・藤田丹波覚書

大日本地名辞典

大日本地名辞典

 

出典橘正隆(1959)『河崎村史料編年志 佐渡島中世迄のおいたち』河崎公民館.

「藤田丹波覚書」。景勝上米船六拾艘余越前の浦ニ而損じ申候、右之船に佐渡銀子六貫目入の箱六百余登申候処、浦之者 銀も米も取散し、其上上乗・船頭共迄はだかに仕候。拙者は新保と申津へ船十艘つけ、米弐千石・らう・うるし・塩引迄蔵入仕、其夜十艘乍ら打破申候所、地下の者三百許押懸蔵を破可申由承、肝煎をとな、四、五人の女を証人に取、鑓・鉄砲にて船衆百人余召連蔵の番をさせ、直江山城方より治部殿江被申上候へば、御所様より越前浦々へ御人数被遣御せんさく、所々の代官・肝煎とも百人余はたものに上候。

 

 

『鶏肋編』(けいろくへん) と『大泉叢誌』(たいせんそうし)

『上越市史』の記述と『大日本地名辞典』の記述が若干?異なります。
まずは、船に積んでいた佐渡銀子の量が違いすぎます。

『上越市史』は「六貫目入の箱」600貫×3.75㎏=2,250㎏
『大日本地名辞典』は「六貫目入の箱六百」=13,500㎏

この表記の違いは何でしょうか、どうやら出典元の違いのようです。

『上越市史』や『山形県史』の出典は、『鶏肋編』。『大日本地名辞典』は『大泉叢志』とあります。

鶏肋編』は、庄内藩、藩校致道館司書を勤めた、加藤正從が文化3年から天保5年まで約30年を費やして庄内藩の諸古文書を筆写・整理したもので計92冊あり、山形県史 資料篇 5・6に全文掲載されています。

大泉叢誌』は、庄内藩士、板尾宋吾が文化4年の蟄居中に庄内の古記録を記述・整理して編集したもので、子の万年、孫の清風と3代にわたって執筆を継続し完成させ、計139冊と附図35枚があります。

どちらも山形県指定文化財になっており、公益財団法人 致道博物館が所有しています。

『鶏肋編』と『大泉叢誌』、庄内藩に二つの史料があるのは「加藤正從さん」vs「板尾宋吾さん」の図式のようです。
しかし、『大日本地名辭書』に記されている(佐渡銀子)「六貫目入の箱六百」が本当に『大泉叢誌』に記されているのか? 記されているとしたら何巻なのか?が気になって、 所有者である【公益財団法人 致道博物館】に問い合せしました。
早速、致道博物館の学芸員の方から丁寧なご回答をいただきました。ありがとうございます。

お問い合わせの「藤田丹波覚書」の件ですが、
まず、該当箇所は「大泉叢誌」巻31に収録されています。

確認したところ、「銀子六貫目入の箱百余り」と記載されていましたので、
おそらく『大日本地名辭書』の誤記かと思われます。

なお、「大泉紀年」という、江戸時代前期の庄内藩史をまとめた史料にも、
「銀子六貫目入の箱百あまり」とあり、上記と同じ記載でした。

お忙しい中 お調べいただき、本当にありがとうございました。
それにつけても、すごいよ庄内藩。『鶏肋編』に『大泉叢誌』それに『大泉紀年』と、三つもあるなんて、凄すぎです。
『大泉紀年』もお調べくださいました致道博物館の学芸員様、厚く御礼申し上げます。
これで佐渡銀子の量が「六貫目入の箱百」600貫×3.75㎏=2,250㎏で確定し、
『大日本地名辭書』の「箱六百」表記が間違い(誤植?)と判明しました。
まずは、納得です。
尚、藤田丹波の覚は『鶏肋編』『大泉叢志』、どちらも「一、」から続く文が14項目あり、記載内容は同じでした。
そうしますと、『河崎村史料編年志』の表記は「箱六百」となっており、内容も「覚」の一部分だけしか引用していない『大日本地名辭書』と酷似しています。
したがいまして『河崎村史料編年志』552ページの「藤田丹波覚書」は、吉田東伍(1907)『大日本地名辭書』冨山房, から引用したものと合点しました。
しかし、『河崎村史料編年志』では、キーワードの「大日本地名辭書」や「大泉叢志」・「元和8年」などを、何故表記しなかったのでしょうか?
「年月が不詳ながらも参考のためにここに掲載したが、文中「佐渡銀子」とあるのは、多分年貢銭のことではなく、佐渡産出の金銀の意であると思う」
銀の多さと、最上家改易の元和8年。橘先生もお感じになり、上記の表現になったのでしょうか。
しかし、このキーワードを隠したことにより、『河崎村史料編年志』を手にした後世の人々が、どれだけ橘トラップにかかり、道をそれたことやら‥。
そして、この覚書をあらためてよく見ますと‥。武勇伝に見えてくるのは私だけでしょうか? 積荷の佐渡銀子・六貫目入の箱百(約2トン)の存在すらも‥。
一応、福井県でこのような伝承が存在するのか図書館を通じて調べていただいております。図書館の方、ご迷惑をかけております。
鶴子銀山

鶴子銀山跡

藤田丹波と元和8年

出身は弓庄(富山県)で、最初は土肥家臣みたいです。その後「上杉?」、慶長出羽合戦で「最上」と渡り歩き、元和8年に「酒田」新生 庄内藩に士官するわけですから
藤田丹波さんも時代に翻弄された一人と言えます。

「覚」の最初に、小出城が出ています。景勝が富山小出城を落としたのが(天正10年)1582年です。この時の丹波さんは16歳とありますから元和8年の庄内藩 再就職時は56歳?でしょうか。

それにしても『鶏肋編』に記されている藤田丹波覚を見ていると履歴書のように感じ取れます。

同年代として、身につまされる思いです。

もし、私が56歳のとき会社が倒産して職を失ったら‥。
再就職先で自身を売り込むには、話を盛るのも必要悪とは思います‥。

丹波さんは新生 庄内藩で海運の職務につきたかったのでしょうか?

出典阿部正己(1937)『庄内人名辭典』言霊書房, に藤田丹波が載っています。

上杉氏の士なり、諸所の戦場に参加して功あり就中小田原北條氏征討に随ひ戦功あり、慶長五年下對馬守谷地に籠城せしが直江軍引退せしを以て原美濃、中澤志摩と對馬守を勤めて開城せしめ再び對馬守大山城主となるに及び丹波も降りたり、翌六年下對馬守と坂田城を攻めて陥る。元和八年最上氏改易に及び先亡五十三騎と庄内酒井氏に仕ふ

まずは、再就職できたみたいです。

 

上記『庄内人名辭典』に「上杉氏の士」とあります。
藤田丹波さんが気になり、ちょっと調べてみました。

『新潟県史 別編3』に「文禄三年定納員数目録」が載っております。この中で、藤田丹波の名を探しましたが、何度見ても見当たりません。

【文禄三年定納員数目録】
直江兼続の指示で文禄3年(1594年)9月に泉沢久秀が作成した、2000人に及ぶ上杉家臣団の知行目録で、家臣団は「越後侍中、信濃侍中、五十騎衆、地方在番衆」から構成されます。

上杉の士とあるのに、「文禄三年定納員数目録」に藤田丹波の名前がない?
見間違い、誤植の可能性もあります。???

次に、丹波さんの自己申告(覚)に基づき、弓庄城(富山県中新川郡上市町)時代を探ってみました。今度は見つかりました。

出典富田景周(1798)『越登賀三州志』(手書き)
(石川県立図書館 デジタル図書館 貴重資料ギャラリー)

佐々成政與土肥政繁數交兵
八月六日佐々成政利兵ヲ以テ土肥美作守政繁ノ弓庄城(略)ヲ囲ム藤田丹波(政繁ノ臣)出テ白倉豊丞ト槍ヲ合スト云(略)

藤田丹波は土肥政繁の家臣であると、寛政10年(1798)に富田景周は言っています。(記しています)
ですから、藤田丹波のルーツは弓庄で確定ですが、上杉に在籍していたかは不明です。

ちなみに、景勝の船難破の件で、福井県立図書館からご回答をいただきました。
三国町にも新保浦があるとのことです。そうしますと越前国(福井県)で海岸に面している地名で「新保」が二つあることがわかりました。
お忙しい中お手数をお掛けいたし ありがとうございました。
越前町(1977)『越前町史上巻』、三国町教育委員会(1964)『三国町史』。
三国町と越前町の間にある越廼村の 越廼村(1988)『越廼村誌 本編』。
越前町の南に位置する河野村(1984)『河野村誌』、そして『福井県史』と調べていただきましたが、どこにも記述がないという結果をいただきました。
福井県立図書館 郷土史料班の方、大変ありがとうございました。

したがいまして、『鶏肋編』や『大泉叢誌』の記述にある「次の年景勝上米船六十艘余越前の浦々ふて損し候」の事実は、なかったと断定(個人的)しました。

しかし、当時の佐渡では鶴子銀山や滝沢銀山(新穂銀山)など、かなりの量の産銀がありました。
そして、慶長三年蔵納目録に上杉景勝の銀(佐渡産銀)の運上記録がないのは事実で不思議です。

 

佐渡・庄内ガストロノミー

今回、庄内藩士 藤田丹波さんの紡いだ覚書がご縁となり
佐渡と庄内の繋がりを再確認できました。

2019年は「新潟県・庄内エリア デスティネーションキャンペーン」です。

藤田丹波が「覚」を記した日付が11月28日。
DCキャンペーン期間真っ只中です。

ぜひ、庄内・佐渡を旅してください。

鶴岡市にある致道博物館では、2019年5月頃「大泉叢誌」巻31を収録した本を販売予定です。
この本の中には藤田丹波の覚が載っております。

この冬、庄内の地で この本を開き 藤田丹波に思いをはせ
あなたがトレジャーハンターとなり 消えた佐渡産銀を追ってください。

佐渡に来て、銀があった確証をつかんでください。

佐渡と庄内、  交わるところに 必ず答えがあるはずです。

 

そして 私に おしえてください 伏見に佐渡銀子がないワケを

 

佐渡(新潟)・庄内ガストロノミー

庄内藩士・藤田丹波が食したはずの「いもがら」や上杉の士が佐渡で食したであろう「いごねり」の さりげない食。

そのさりげなさにこそ、食を育んだ庄内・佐渡の歴史や文化が秘められています。

藤田丹波がいざなう旅 佐渡(新潟)・庄内ガストロノミー
答えを知る旅に お出かけください。

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ホンマでっか!? HONMAです年。2019年佐渡は Anniversary https://sado-koi.ebb.jp/honma460th/ https://sado-koi.ebb.jp/honma460th/#respond Wed, 02 Jan 2019 16:00:57 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=1439 Anniversary congratulations SADO 2019

2019年 今年の佐渡は Anniversary!

ホンマでっか!? HONMAです年。

750th Anniversary(本間文字 初見参)

今から750年前の1269年・文永6年は佐渡に初めて本間の文字があらわれた年になります。

ホンマでっか!? HONMAです年。

佐渡 本間の文字 750th Anniversary congratulations

 

570th Anniversary(金の花榮たる所 佐渡)

『今昔物語集』巻第二十六に

「能登國堀鐡者行佐渡堀金語第十五」に

「…… 佐渡の國にこそ金の花榮たる所ハ有りしか ……」

とあり、佐渡で金が採れることが書かれています。西三川砂金山のことと思われます。
出典近藤圭造(1882)『今昔物語集 巻第26』, (※コマ番号46)

 

今昔物語集の成立は平安末期頃とされていますが

出典京都大学附属図書館. (1996)
「今昔物語集」への招待 -鈴鹿本「今昔物語集」国宝指定記念-   に、

なお、『今昔物語集』は内包する多様性、迫力ある描写、等々さまざまな魅力をもつ作品であるにもかかわらず、その名が後行現存の文献中に登場するのは室町時代の僧・大乗院経覚の日記『経覚私要紗』宝徳元(一四四九)年七月四日の条「四日、霧、夕立、今昔物語七帖返遣貞兼僧正畢、…」が初めてである。中世を通して他に現われず、次に出てくるのは近世初期ともいえる『多聞院日記』の天正一一(一五八三)年十一月八日条「…今昔物語十五帖大門二在之 南井坊へ返遣了」となる。古本系といえども伝写本のほとんどが近世以降のものであることを考え合わせると『今昔物語集』は鈴鹿本が中世初期に書写されてのち長い眠りについていたと考えられる。

とあります。上記からしますと

「佐渡の國にこそ金の花榮たる所が 出来上がったのは、平安末期頃ですが
はじめて世に出たのが今から570年前の1449年・宝徳元年となります。

つまり、宝徳元年が「佐渡金銀山の告知元年」と言えます。

2019年は「佐渡金銀山の告知元年」から ちょうど570年目です。

 

新元号○○元年は、佐渡にとって

次なるステップ・新たなる「佐渡金銀山の告知元年」としなければなりません。

2019年4月1日に発表される新元号○○元年は

佐渡の國にこそ金の花榮たる所」と内外にアピールする新たなる告知元年と言えます。

 

佐渡(地元)に関心を持つ年でもあります。

ホンマでっか!? HONMAです年。

佐渡金銀山告知 570th Anniversary congratulations

 

460th Anniversary(佐渡産金銀バラまく)

上杉謙信が佐渡産の金銀をバラまいた!?

今から460年前の1559年・永禄2年

永禄2年2月
織田信長(26歳)は、上洛して将軍足利義輝に謁見してます。

その2か月後の永禄2年4月
長尾景虎(上杉謙信・30歳)も上洛・謁見し、佐渡産の金銀を京洛の諸所に贈与したとあります。
「 … 此悉ク分内佐州ノ産ニシテ年々ニ其産限リナシ … 」とあります。出典【上杉家御年譜】

佐渡産砂金

この上洛行為は前年の北白川の戦いの影響も大きいかと思われますが、戦国武将の駆引きが見えてきます。

先に信長が上洛したことを景虎(謙信)も、世間も知っています。漢の意地、ポジショニング戦略とでも申しましょうか、そういったことも関係して佐州ノ産ニシテ年々ニ其産限リナシ」という言動につながったと思われます。この景虎(謙信)の行動は広く京中に広まったことでしょうし、信長との違いを世間に知らしめる結果となりました。

また、このことは耳障りな事として信長に届けられ 、木下藤吉郎(秀吉)にも伝わったことと思われます。

そして、この景虎の行為(金の花が栄える佐渡)が、藤吉郎(秀吉)にイメージとしてインプットされ、のちの秀吉の意「金銀山は、公儀の御山たるべし」につながっていくのだと思います。

したがいまして、460年前の謙信の佐渡産金銀のバラまきは
佐渡金銀山発展のプロローグ的な出来事とも言えます。

ホンマでっか!? HONMAです年。

佐渡金銀山の序 460th Anniversary congratulations

 

430th Anniversary(佐渡金銀山の礎)

佐渡金銀山の礎・佐渡天正の役

今から430年前の1589年・天正17年

佐渡は上杉景勝によって平定されました。秀吉の意である「金銀山は、公儀の御山たるべし」の元、天下統一という大きな枠組みの中、佐渡への侵攻は必然であり、豊臣大名として佐渡の産金銀の円滑な吸収は上杉にとって必要不可欠な命題でありました。

ホンマでっか!? HONMAです年。

佐渡金銀山の礎 430th Anniversary congratulations

2

HONMAです年。

単なる語呂合わせや、親父ギャグと おっしゃるかも知れません。

しかし、古来より言葉には魂(霊的な力)が宿るとされていて「ことだま」とも言われています。

そして、「想い」や「言葉」にも「色」があり、それは伝わるものだと信じています。

ポジティブな言動は相手に心地よい色となって伝わります。

まずは、自分を装うだけでも良いと思います。

佐渡(地元)に関心を持ち

みんなで佐渡の世界遺産登録の機運を高めましょう!

2019年佐渡。ホンマでっか!? HONMAです年。ホンマ(本気)です!

 

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本間でっか!? https://sado-koi.ebb.jp/nichiren07-honma01/ https://sado-koi.ebb.jp/nichiren07-honma01/#respond Sun, 16 Dec 2018 16:45:43 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=969

ホンマでっか!? 本間です。

 今から約10年前のNHK大河ドラマ「天地人」のとき、佐渡の城主が本間だらけで、面食らったのを憶えています。(河原田:本間佐渡守高統・雑太:本間信濃守高滋(佐太郎)・久知:本間加賀守泰亮・沢根:本間摂津守永州(佐馬助)・羽茂:本間対馬守高貞 等々)

天正17年(1589年)7月7日。河原田城陥落当時の佐渡のお殿様たちでした。

日蓮聖人遺文によりますと、文永8年(1271年)当時の佐渡守護代は、相模国依智郷(現・厚木市)の本間六郎左衛門重連です。

天地人と同じ「本間」!? その年代差318年。天正時代の佐渡のお殿様「本間」の皆様は、文永8年の本間六郎左衛門のDNAを受けつぐ方々なのでしょうか?

河崎村史料編年志
また、私の歴史バイブルでもある
橘正隆(1959)『河崎村史料編年志 上巻』河崎公民館. p.283に、

「文永六年 1269 四月の下行札に、当地頭本間山城云々、と記されたのが、

佐渡に於ける本間文証の初見である」 とあります。

つぎのP.284に木製の札2枚の画像を載せており、

下行札

下行札 (畑野町史 松ケ崎篇 万都佐木より転載)

「(表)正四位下行。(裏)当地頭本間山城口口入道口口」
「(表)正四位下行。(裏)文永六年巳四月廿二日」

と書かれているらしく、註釈として

「これを土地の人は下行札とよんで居り、或は住吉神社の分霊が渡った時のものとも、又は公用船の標識札ともいわれている。恐らくは、公用船の家形にかけて、その標識としたものらしく、このとき北条宣時が佐渡視察に渡島した訳ではなかろうか。本間山城兵衛入道とは、(略)」 とあります。

 

また、この下行札(げぎょうふだ)のことは『畑野町史 萬都佐木』でもp.40~P.45の6ページにわたり紹介しております。
松ケ崎郷土誌資料の記載ということで、松前神社の開創年暦縁起かも知れない木札とのことで、
当地頭本間山城口口口長政」 とあります。

河崎村史料編年志は13文字。松ヶ崎郷土誌資料は12文字で、文字数も、読み方も異なります。

いづれにしても、「当地頭本間山城」までは同じですので、文永6年(1269年)には「本間山城~」と呼ばれる人がいたのは間違いないと思います。

そうすると、文永6年の「本間山城~」と、文永8年の「本間六郎左衛門」は、

その差2年。 同一人物? 別人なの?

ホンマでっか!? 本間さん!?

ここまでくると、自分でも、訳が分からなくなってきます。 現在、依知(厚木市)に本間姓は残っているのでしょうか?

依知(厚木市)には六郎左衛門のことは、どのように伝承されているのでしょうか?

厚木市(依知)の方々に「本間」について、聞いてみたい。語り合いたい。

依知(厚木市)の方々とと交流の場を設けられたら、きっと楽しいだろうな。すなおに思う 今日この頃です。

 

プロジェクト名 「2021年を佐渡の大観光交流年に!」

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日蓮聖人の魅力はどこにあり、人々にどのように伝わったのでしょうか?

それは、日蓮聖人から風が吹いていて、その風は人々の心に届く暖かく、心地よい風のように思えます。

まるで、残雪をとかす春風のように、おだやかに沁み入ったのでしょう。

虜にさせる天賦の才

人を惹きつける、日蓮聖人の魅力。ある人はマインドコントロールとか洗脳と云い、また帰依とも云う。
そして、佐渡での出来事は決して、洗脳とかではない出来事と思われます。

Case1. 阿仏房 ご夫妻

【千日尼御前御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1544)
弘安元年(1278年)7月28日
「而に日蓮佐渡國へ流されたりしかば彼の国の守護等は国主の御計に随て日蓮をあだむ。萬民は其の命に随う。念仏者.禅・律・眞言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計と申つかわし、極樂寺の良観等は武蔵前司殿の私御教書を申て、弟子に持せて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計ラヒはさてをきぬ、地頭々々等 念仏者々々々等 日蓮が庵室に晝夜に立そいてかよ(通)う人 あるをまどわさんとせめしに、阿佛房にひつ(櫃)をしおわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡國に生かわりて有か。
(略)又其故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。」
 現 代 語 訳
佐渡へ流されたら、国主(北条宣時)の指示で、本間六郎左衛門らは、日蓮を迫害した。また、島民も本間六郎左衛門の命令に従った。他宗の僧も、鎌倉へ帰さないよう画策した。すべての地頭・すべての念仏者等は、日蓮の住まいに昼夜見張を立て、日蓮と接触しようとする人を妨げようとしたのに、阿仏房におひつ(ご飯)を背負わせて、夜中に度々お訪ねなったことを、いつの世になっても忘れようか。ただ亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか。
(略)また、そのために所を追われ、あるいは科料に処せられ、あるいは家宅を取られるなどしたのに、ついに信心を貫き通された。

塚原での話と思われます。阿仏房ご夫妻は、どの時点で日蓮聖人の魅力に憑りつかれたのでしょうか?どの時点で日蓮聖人に惚れたのでしょうか?

いづれにしても 阿仏房ご夫妻は、日蓮聖人ご一行のために 人の目を避けながら食料を運び、そして、食料を運んだのが原因で、罰金や家屋を没収され、追放になったみたいです。

 

また、田中圭一(2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版.では、
阿仏房のことを、「預りたる名主」みょうしゅ)」と表現しています。

田中圭一先生は、日蓮配所の塚原の場所を、「一堂一社七かまど」の論理で「垣之内」の堂、もしくは阿仏房が”今で云う徒歩圏内”で食事を運べる距離に、塚原があるように設定しています。


『新版 日蓮と佐渡』P.65 3行目
「しかし『日蓮遺文』によれば、本間重連の館のほど近く、阿仏房が徒歩で食事を運べる範囲に日蓮が置かれた配所がある。」

 


『新版 日蓮と佐渡』P.78 11行目
「また、阿仏房の家も、この推定「塚原配所」から徒歩圏にある。そして、阿仏房が日黒町に居住していたという見方は、すでに近世以前に存在した。」

 


『新版 日蓮と佐渡』 P.88 2行目
「繰り返すようだが、他所の「在家」の者は、夜中に他人の「在家」の中にある「堂」に立ち入ることはできないであろうし、夜中に櫃を背負ってある程度の距離を歩いたりすれば人目にもつく。このようなことからして、阿仏房は日蓮を預かった「在家」の主であり、名主であると断定してよいだろう。」

それでは、①②の「徒歩で食事を運べる範囲」「徒歩圏内」とは、どのくらいの距離でしょうか?

仮に、私が阿仏房でしたら、距離は さほど関係ありません。

「この人のために、してあげたい」と思う気持ちが原動力です。KOI(恋)と同じでトランス状態です。喜ぶ顔が見れるだけで、幸せです。
人が人に惚れる状態とは理屈じゃありません。KOIに常識は通用しないのです。

私の場合、片道5㎞(トキマラソンをめざし、トレーニング中)でも問題なしです。歩く距離に比例して、心が満たされる感覚なのです。

ちなみに、【千日尼御前御返事】で日蓮は
「去る文永十一年より今年弘安元年まで既に五ヵ年間、この身延の山中にあったのに、佐渡の国より三度までも夫を遣わされた。」とあります。

阿仏房は5年間で3回も佐渡~見延 間を往復しており、
Googleマップで寺泊港・佐渡汽船乗り場~身延山久遠寺 間の距離を調べたら311㎞でした。
さすが昔の人。足腰が丈夫だったみたいです。

合わせて、に関して、当時の照明は何を使っていたのでしょうか? ロウソク? お皿の油に火をつける灯明でしょうか? ともあれ、街路灯もあるはずはなく、夜は月がでないかぎり暗く、よほどのことがないかぎり、夜は外に出ないと思います。

また、『新版 日蓮と佐渡』では、阿仏房の過料と家屋没収および追放後は、新保に阿仏房元屋敷と呼ばれる場所があるので、新保に移転したと記されています。
処罰の決定を下したのは、やはり、本間六郎左衛門でしょうか?

気になるのは、垣之内の代表者(名主みょうしゅ)が、処罰追放された場合、残された在家の方々はどうなったのでしょうか? 垣之内とは、ただ単にコミュニティの最小単位だけでしょうか?
それとも、租税制度にかかわる古代律令制における「五保」と同じような連帯責任等は、なかったのでしょうか?

Case2. 本間六郎左衛門重連

阿仏房を処罰したのは、立場上、六郎左衛門で間違いないと思いますが、処罰の時期はいつ頃なのでしょうか?

また、六郎左衛門が日蓮聖人に魅せられたのはいつ頃なのでしょうか?

本間六郎左衛門は、佐渡守護代として流人である日蓮聖人を管理、監督する立場の人間です。
あらかじめ、日蓮聖人に関することは北条宣時から予備知識としてあったはずです。

だから、佐渡島民となるべく接触しないよう、隔離するために選んだ謫居地が塚原のはずです。

それが、KOIウイルスにでも感染したかのように日蓮に魅せられてしまうのです。

 

建治2年(1276年)作といわれる【種種御振舞御書】が語る、
文永9年(1272年)の記述には、特に日蓮聖人の意思(意図?、誘導?作為?)が感じられるような気がします。
この年は、二月騒動もあり、回顧録と位置付ければ納得はできますが‥。

この遺文によりますと、


1月16日の法門対決(俗にいう塚原問答)は、本間六郎左衛門の提案になっている。
「それよりは只法門にてせめよかしと云ければ、」

 


法門対決が終わったあと、帰るべく場所を立ち去った本間六郎左衛門を、日蓮が呼び返して、日蓮と本間六郎左衛門は話をしている。

 


2月18日の夜、本間六郎左衛門は自分が鎌倉へ戻るとき、日蓮に手を合わしている。
「日蓮にたな心を合セて、たすけさせ給へ、」

上記の【種種御振舞御書】の内容ですと、Bの1月16日の法門対決終了時には、日蓮聖人はすでに本間六郎左衛門のハートをワシヅカミにしていることになりますが‥。

1月16日か否かは別として、まぎれもなく本間六郎左衛門は日蓮聖人に魅せられてしまいます。まさに、ミイラ取りがミイラになることになります。

また、本間六郎左衛門は日蓮聖人に帰依したあと、依知にある3ヶ所の屋敷を全て寺としたとの伝承が残っていて、
居住跡は神奈川県厚木市金田295の 妙純寺 とされます。

 

日蓮聖人と妙宣寺と直江兼続

『新版 日蓮と佐渡』では確認できませんでしたが、(旧版)『日蓮と佐渡』の110ページ(妙宣寺の欄)に「たしかに寺縁起にいうように、天正17年、日蓮宗の檀越であった直江兼続が雑太城地を寄進するまで、」とあります。

また、新潟県観光協会のHP にいがた観光ナビ においても 妙宣寺の説明で「京都の妙覚寺の日典聖人と親交のあった兼続が、主君上杉景勝に願って雑田本間氏の居城址を阿仏寺10世日帝に払い下げるなど、特別の保護を加えました。」とあります。

直江兼続って臨済宗だと思っていました‥。
京都妙覚寺の日典聖人って『佐渡國寺社境内案内帳』の根本寺の欄に記されている「天正十五年亥年京都妙覚寺日典上人」と同一人物ですよねぇ‥。

『新版 日蓮と佐渡』
109ページに「天正18年3月、再び佐渡に渡来した日典は、同年10月、弘樹寺のはからいによって境内に草庵を造ることができた」
210ページに「これらの文書から、日典の造った草庵が「正教寺」という寺に発展したことは間違いなさそうだ。しかし、最初から壮大な寺院が建てられたのではないし、法華宗の寺院としてその寺格を公認されたものではなかった
それは、慶長5(1600)年、上杉氏の代官・河村彦左衛門によって実施された慶長検地の検地帳に、この寺が記載されていないことで明らかである」とあります。

もしも、私が日典で、兼続とマブダチであると仮定したら、妙宣寺よりも根本寺の庇護を上杉にお願いします(狭量な岩生です)。

それにしても興味をそそられる内容です。一考の価値はあります。
誰かが、どこかで勘違いをしているように思われます。

 

歴史とは、史実の伝承ではなく、覇者の伝記です。
また、色鮮やかな3次元の物体を モノクロ画像で見るに等しく
同じ物でも見る角度や方向により
色・カタチが違ってくるのは必然であります。 岩生

 

もしも〇〇だったなら のすすめ

日蓮聖人が佐渡流罪になって佐渡に着いた日が文永8年10月28日。
西暦換算しますと1271年12月8日です。2021年がちょうど750年目となります。

もしも、あなたが日蓮聖人だったら。
もしも、あなたが本間六郎左衛門だったら。
もしも、あなたが阿仏房だったら。

2019年10月28日(月曜日)・12月8日(日曜日)。
この期間(2019年10月1日~12月31日)は「新潟県・庄内エリア デスティネーションキャンペーン」中です。
(アフターDC  2020年10月1日~12月31日)

あなたが、もしも〇〇となって、佐渡へお越しください。
現在5つ候補のある「聖地・塚原」の場所を考察してください。

あなたが佐渡の地に立ち、流人を受け入れる本間六郎左衛門の思いとシンクロしてみてください。
流人だった日蓮聖人に思いをはせ、同化してみてください。

日蓮聖人だけが知る塚原の場所を感じ取れると思います。

 

 

そして、2021年10月1日~12月31日が「佐渡 日蓮聖人キャンペーン」(NC)になればと思っております。

 

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プロジェクト名「2021年を佐渡の大観光交流年に!」

このページは、特定の個人・団体等を誹謗中傷するものや、思想、信条等を差別し、又は差別を助長させるものではございませんのであらかじめご了承下さい。

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日蓮聖人だけが知る 塚原 の場所 https://sado-koi.ebb.jp/nichiren05/ https://sado-koi.ebb.jp/nichiren05/#respond Sat, 15 Dec 2018 15:06:42 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=683

文永8年11月1日(西暦換算1271年12月11日)この日から日蓮聖人達は「塚原」で過ごすことになります。この塚原とは、どういう場所なのでしょうか?

日蓮聖人が語る 塚原

遺文のワードをイメージすると、日蓮聖人が語る(教えてくれる)塚原が見えてきます。

【国府尼御前御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1063)
建治元年(1275年)6月16日
「野中に捨てられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみ(摘)て命をさゝえたりきり」
現 代 語 訳
野原の中に捨てられ、雪に膚をさらし、草を摘んで食べ、命をささえた

 

【法蓮抄】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.953)
建治元年(1275年)
「栖にはおばな(尾花)かるかや(刈萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂」
現 代 語 訳
住まいは、尾花や刈萱の生い茂る野の中にある、死体を放置する場所(原)の落ち破れた草堂

 

【種種御振舞御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.971)
建治2年(1276年)
「塚原と申山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所に」
 現 代 語 訳
塚原という山野の中にある死人を捨てる場所に

 

【妙法比丘尼御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1551)
弘安元年(1278年)9月6日
「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし」
 現 代 語 訳
人里から遥かに隔たっている野と山との中間に塚原という死体置き場(捨て場)があり、そこに一間四面の堂があります。屋根の板は隙が多く、四方の壁は破れていて、雨が降れば外にいる様で、雪は室内に積もります。仏像もなく、床に敷く筵畳(むしろ)は一枚もありません

 

日蓮聖人が教えてくれる 塚原とは
  ① 塚原とは、死体を放置(捨てる)する場所の名前である。
  ② 塚原は、死体捨て場だから、人里から離れている。
  ③ 塚原は、山に近い野原にある場所。
  ④ 塚原という死体捨て場には、180cm四方の壊れかけた、お堂がある。
  ⑤ そのお堂とは、死者の冥福を祈るためにある堂である。(三昧堂)

つまり、

「人里から、だいぶ離れている山に近い、ススキやカヤが生い茂る野原に死体を遺棄する(風葬)場所」

が塚原なのです。

「塚原」の場所は、人里(垣ノ内)ではない と日蓮聖人(遺文)が教えています。

 

 

また、人が死んだあとの表現として、日蓮聖人は下記のように記しています。

【松野殿御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1441)
建治4年(1278年)2月13日
「野邊に捨られなば一夜の中にはだかになるべき身をかざらんがために、いとまを入れ衣を重んとはげむ」
現 代 語 訳
死んで野原に捨てられたら、どんなに着飾っていても、一夜で裸になってしまう。それなのに、身飾りのために多くの時間や手間をかけ、衣を着ようと努力する

ちなみに、武井成美(2017)『中世の死体放置をめぐって : 考古学的研究の可能性』内の記述に

 「一般庶民にあっては死体は遺棄すべきものであって、決して、後世に残そうとするものではなく、ましてや、尊崇すべきものではなかった事を知る事ができるのである」

とあります。

日蓮聖人のいた鎌倉時代は、佐渡も含め人が死んだ場合、遺体を火葬や土葬にするのではなく、河原や野原に放置(捨てる)するのが、普通でした。

 

先人たちが考察した「塚原」の場所

『畑野町史 信仰編』(1985年)によれば

「昭和11年に日蓮旧跡を追って来島した法老翁こと橘正隆が、従来の佐渡史には史実に反する点が多いことから自らの手で調査を始め、講演や新聞の投稿でそれを発表してからである。
まず昭和14年に刊行された『佐渡名勝志』の附誌に、橘は塚原仙道説を出した。
橘正隆の代表的な著作で最後の書でもある『河崎村史料編年志』では、のちに出される予定であった『日蓮聖人佐渡霊跡研究』に まとめて記述するために、日蓮関係記事はいっさい省かれた。
しかしこ の書は未刊のまま他界され、六冊の原稿や資料は農業高校が保管する橘鶴堂文庫に眠った。
昭和三十年前後に、当時両津高校勤務であった田中圭一氏らをはじめとする佐渡史学会の調査で、右の塚原仙道説は退けられて、目黒町妙満寺付近を塚原と推定する説が登場した。」

とあり、「塚原三昧堂がどこにあるのかについては、これまで諸説がだされていて」とし、4つの説を挙げています。

《A》仙道説  《B》妙満寺説  《C》川西説  《D》根本寺の三昧堂説

また、佐渡博物館の館長だった本間嘉晴氏が『佐渡中世流人 日蓮と京極為兼』(1989年)を出版し
《E》やせがひら丘陵説を打ちだしました。

これにより、塚原と推定される場所は 5ヶ所になります。

それでは橘 正隆氏(1892-1964)の 塚原仙道説とは どのよなものでしょうか?

《A》仙道説

橘氏は、『佐渡名勝志 註附』(1939年)の中で、
(要約)
日蓮聖人遺文に「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり」とあり、なるほど根本寺の所在地を大佐渡と小佐渡の間とでも見れば「野と山の間」と云っても差し支えないが、このような見方は観念上許されるべきではないとし、畑野村仙道こそ塚原だとする、6つの理由をあげています。
尚、この塚原仙道説は田中圭一(2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版. P.71にも記載されていますので、わかりやすいのでこちらを引用します。

仙道の付近が「なんだい野」というふうにいわれているが、それは日蓮のいう「蓮台野」の誤りか、または塚原問答の余香をとどめた「難題野」かもしれない。
仙道の南約三町の地点に「東海林屋敷(しょうじやしき)」と呼ぶ館跡があり、それが荘園の代官・本間重連の館跡と思われること。
その証拠の一つとして、近くの栗野江集落に金立権現(かなたつ)という社があるが、これは相模国依智の金田権現の分霊であると思われる。
身延山の宝蔵にある弘安4(1281)年の『佐渡奇瑞之図』(快似法師筆)は現地仙道に酷似している。
仙道は中山道のように山道で、松ケ崎から塚原にいたる交通上の一地点が集落名として残った のであろう。
仙道が「塚原」と呼ばれたかどうかに疑問は残るが、塚原という地名は共同墓地のようなところを指したらしく、仙道の付近が栗野江村(現・畑野町栗野江)の共同墓地に登録されていることから、やはりここが塚原であろう。

以上の6点が根拠とのことですが、

『新版 日蓮と佐渡』では、
「この説に対し、私は基本的な欠陥を指摘しないわけにはいかない。というのは、橘氏は守護所や阿仏房・国府入道などを考慮に入れていないからである。また、「佐渡奇瑞之図』には、たしかに「 安四年」の文字があるが、室町期の作と考えるのが一般的のようである。」

と、仙道説を一蹴しています。

また、『畑野町史 総編』(1988年)によりますと、「仙道説はこれを説いた橘法老の死去と共に薄らいでおり、それに代わる佐渡史学会などの多数の支持者のある妙満寺説が今主流であるかの感を与えている」としています。

《B》妙満寺説

田中圭一先生の説で『新版 日蓮と佐渡』の記載内容で 78ページに

現在の日黒町熊野神社から共同墓地あたりまでを「塚原」だと推定する最も大きな理由は、そこが 『日蓮遺文」の叙述と符合するからである。本間重連の館が波多にあって、その付近は広大な条里水田地帯である。その周辺に野や山は、目黒町村の丘陵部を除いてはまったく存在しない。だから、 『日蓮遺文』に符合する「塚原」はここ以外の地にはない。
このように「塚原」が特定されれば、「六郎左衛門が家のうしろ」「六郎左衛門が家のうしろみの家より」という「種種御振舞御書」の異同は、さして問題にすべきことではなくなる。とはいえ、日蓮の「六郎左衛門が家のうしろ」という記述のほうは、日蓮の住む堂からは前方に本間の館が見える、そういう情況を指し示しており、よりいっそう写実的な表現といえる。
また、阿仏房の家も、この推定「塚原配所」から徒歩圏にある。そして、阿仏房が日黒町に居住し ていたという見方は、すでに近世以前に存在した。というのは、阿仏房の子・藤九郎守綱の遺跡が目黒町に妙満寺として残され、現に藤九郎のものといわれる墓が残されているからだ。もちろん、それらのものが日蓮在島以来続いているとは思えないから、戦国時代か、江戸時代に入る頃に再建されたものであろう。

※ 『新版 日蓮と佐渡』には(旧版)『日蓮と佐渡』(1971年)があり、執筆者は佐藤利夫氏・小菅徹也氏・山本仁氏・山本修巳氏の4名、編者が田中圭一氏とあります。
ちなみに(旧版)『日蓮と佐渡』の90ページには

目黒町を塚原だと推定するもっとも大きい理由は、本間重連の館が波多にあって、その付近は広大な条里水田地帯で、野や山は目黒町村の丘陵部を除いてはまたく存在しないからである。守護所の西にあった寺が下国府房と呼ばれたことからすれば、東方にある目黒町は上手にあたる。だからもし日蓮遺文を正しいものとみれば、塚原はこれいがいの地にはなく、したがって阿仏房の家もこの目黒町になければならない。このことからすると、日蓮のいう本間重連の家のうしろという表現は、きっと日蓮の住む堂からみると前方に本間の館がみえるという、そういう情況を指したものだと思われる。

とあります。

《C》川西説

『畑野町史 総編』によれば、宮川もしくは三宮に至る地域に塚原があったとする説らしく、184ページに「未公表ながら佐渡考古歴史学会の指導層の中にもあり、これから先の調査研究がまたれるところである」としています。

また、『畑野町史 信仰編』148ページでは、日蓮聖人遺文の「種種御振舞御書」の「家のうしろみの家より」と「家のうしろ」の違いを指摘し、《川西説》は、『「昭和定本 日蓮聖人遺文』の「が家のうしろみの家より」を採用していること、《妙満寺説》は、「家のうしろ」を採用していることに触れています。

そして、《川西説》の場所が「小倉川左岸の川西地区」とし、「うしろみ」を採用した理由として、
「立正大学日蓮教学研究所編」の「うしろみ」とは、後見人のことであるとして、重連の不在時に留守居役として田畑の管理や流人の世話を想定したものである。」と記しています。

 

《D》根本寺の三昧堂説

現在の根本寺境内にある三昧堂とする説で『新版 日蓮と佐渡』に
1442年(嘉吉2年)に佐渡を訪れた身延山久遠寺の日朝が著した『元祖化導記』という伝記に「彼の国にては新穂郷内塚原と云う処の小堂に住み玉へり云々」(『日蓮聖人伝記集』昭和49年 西宮・妙宝寺発行)

また、『佐渡國寺社境内案内帳』(1751~1764年頃成立)
大野村 塚原山 根本寺 の欄によりますと
書き出しが「当寺身延山池上中山三ケ寺之寺之輪番所祖師日蓮  ~ 」からはじまり、要約しますと

  • (1274)日蓮聖人が鎌倉へ帰参の後 当村に正教寺を建立
  • (1587)天正15年 京都妙覚寺日典上人 当村に根本寺を開基
  • 小木町 安隆寺の旧記に、(1663)寛文3年 不受不施の再乱で正教寺と根本寺を一寺として根本寺を相続。身延山隆源院日莚上人より小木町 安隆寺九世宝源院が根本寺を兼帯(兼務)
  • (1664)寛文4年6月30日の寺社奉行所の書付に塚原正教と云う寺号がある
  • (1666)寛文6年4月、寛文9年6月と二度 京都妙覚寺より末寺の調査で慈眼院が渡海したときは根本寺と云う寺号があった。
  • (1671)寛文11年 1月23日の寺社奉行の書付に 塚原正教寺 同根本寺 御松法性寺 同実相寺 各両寺を一寺にして塚原は一宗崇敬の霊地により三ヶ所輪番所に定める。この年より両寺一寺に改まったとみられる

とあり、根本寺は京都 妙覚寺日典上人が深く関わったみたいです。

《E》やせがひら丘陵説

本間嘉晴(1989)『佐渡中世流人 日蓮と京極為兼』佐渡考古歴史学会. の 19ページから引用しますと

従来は、ほとんどの人が本間六郎左衛門の家の後ろから塚原へつれていかれたとしているが、ここで疑問は本文中の「うしろみの家より」という文はどのように解すればよいのかということである。とにかく「家」という字が二つ続いて出てくるのである。六郎左衛門の後方を見張るための家(特別建築物)とみるか、本間六郎左衛門の後見役(留守番の代官職)の家とみるのかが、まず問題となる。しかし前述「塚原」をめぐる問題のところで紹介したように『波木井殿御書』(弘安五年十月七日)には「上略、本間六郎左衛門尉が後見の家より北に、塚原と申して洛陽の蓮台野の様に死人を送る三昧原ののべにかき(垣)もなき草堂に落著ぬ。以下略」とあり、漢字で明瞭に「後見」と書いてあり、後見の家(代官職の家)より塚原につれていかれたもので、本間六郎左衛門の家から直接塚原につれていかれたものではないと理解しなければならない。しかも「後見の家より北に」と塚原の方位が記されている。こうした観点から「塚原」の位置は新しい視点に立って検討されなければならない。

と日蓮聖人遺文の叙述表現を指摘し、守護所の場所も

  1. 国府の所在や国府域址を立証するためには、その範囲内において、それを裏付ける遺構、土器類、その他の関係遺物の出土が必要である。
  2. 安国寺ははじめから安国寺村に建立されたものではないと思われる。安国寺が最初から下畑に建立されたとするには、周辺からそれを裏づける中世(鎌倉末・室町)陶質土器などの遺物の出土が必要と思われるが、そうした遺物の発見は伝えられていない。
  3. 下畑熊野神社跡、本間宮内家跡近くにあった城跡といわれるものを本間六郎左衛門重連の守護所だとか、元亨三年(1323)波多郷代官となった本間有綱の館だとするものがあるが、積極的理由や拠証はどこにもない。
    この城跡といわれるものは環濠住居の姿をとどめており(中略)この城といわれる環濠館址は十五世紀または十四世紀後半をさかのぼるものでなく、水利権をにぎった村殿級の館址とみるべきものである。
  4. こうの入道・こうの尼御前の「こう」をすべて「国府」におきかえるのではなく「江」におきかえてみるほうがよのではないかと思われる。
  5. 京極為兼が「畑という所へ、人々忍びてまかり待る」の畑は下畑地域と特定するなんらの根拠がなく、むしろ(中略)発掘調査等からみれば、後山・三宮地域における集落跡発展の状況や神寺跡分布の状況からして、当地域を想定するほうが妥当と思われる。
  6. 鎌倉幕府の任命した守護(守護代)は、国内の大番催促・軍事・諜叛・殺害人などに対する警察権をもつ大役である。もし本間六郎左衛門が守護代的性格をもって佐渡に配置されたものでるとすれば、彼は佐渡本間の棟梁たる地位にあるものであり、各地域の地頭を指揮し、佐渡一国の支配権をもったものである。新穂とか畑野下畑などといった旧國衙領の外周地に住することはおかしい。旧国衙のあった中心部の竹田台地付近に守護所をもうけ住したとみるのが最も妥当な考えと思われる。

とあり守護所は現在の佐渡市畑野ではなく、佐渡市竹田だったとしています。

本間六郎左衛門の居城(守護所)は竹田台地の本城(現妙宣寺境内)を想定し、弟で代官職をつとめた人物は東の支城(出城)の二の城(竹田城)に住し、西の支城(出城)として檀風城(通称)が築かれていたものと推定している。これらの城は本城・支城の関係をもった一連の城が前であったと考えている。(中略)
日蓮は代官職のいた二の城(竹田城)から、「やせがひら」の塚原の三昧堂につれていかれたのである。
二の城(竹田城)の東北前面の竹田川の沢(本掘沢)を渡ると東方向に高まりをしめし、合沢地内に続く丘陵地に突きあたる。この丘陵台地一帯約四~五町歩にわたる地域が、やせがひら(八瀬ヵ平)丘陵地である。

そして、圃場整備事業の際、やせがひら丘陵の北東側部から黒褐色の土壙墓跡や多くの石塔婆が発見されたり、この場所より約80m東部のやや高い丘陵地帯の水田下からも須恵器長首壺の破損したものや古銭188枚が発見されており、このようなことから
「塚原は、やせがひら丘陵の北東部地域にあった。」としています。

【波木井殿御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1928)
弘安5年(1282年)10月7日
(上略)
十月十日相模の依智を立て、同シキ二十八日佐渡國へ著ぬ。本間六郎左衛門尉が後見うしろみの家より北に、塚原と申て洛陽の蓮台野れんだいのの様に死人を送る三昧原ののべにかき'(垣)もなき草堂に落著おちつきぬ。夜は雪ふり風はげし。きれたる蓑を著て夜を明す。北國の習なれば、北山のみねの山をろしのはげしき風、身にしむ事をば但思やらせ給へ。彼國の守護も國主の御計ラヒなれば日蓮を怨
(中略)
此法華経は三途河にては船となり、死出しでの山にては大白牛車となり、冥途にてはともしびとなり、霊山へ参る橋也。霊山へましましてうしろらわたりどのにて尋させ給へ、必奉るべく候。
(下略)

 

 

 

塚原の場所 諸説の比較

諸説ある塚原の場所の違いをまとめてみました。

塚原の場所 提唱者等の内訳

提唱年 提唱者 参考資料 塚原の場所
根本寺説 1587年 妙覚寺日典上人 佐渡國寺社境内案内帳 現行 根本寺 境内
仙道説 1939年 橘 正隆 佐渡名勝志 註附 佐渡市栗野江 地内
妙満寺説1 1971年 佐渡史学会 日蓮と佐渡 佐渡市目黒町 地内
妙満寺説2 2004年 田中圭一 新版 日蓮と佐渡 佐渡市目黒町 地内
川西説 1985年 佐渡考古歴史学会 畑野町史 総編 佐渡市宮川 地内
八瀬ヵ平説 1989年 本間嘉晴 日蓮と京極為兼 佐渡市竹田 地内

日蓮聖人遺文の捉えかたの違い

『種種御振舞御書』内 の表現 をどう捉えるか
A「六郎左衛門が家のうしろ」
B「六郎左衛門が家のうしろみの家より」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説
A A A B B

※ 佐渡史学会が「六郎左衛門が家のうしろ」、佐渡考古歴史学会は六郎左衛門が家のうしろみの家より」と解釈したみたいです。

 

諸説の塚原の場所は、日蓮聖人遺文に適合するか?

①『法蓮抄』建治元年(1275年)
「おばな(尾花)かるかや(刈萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

 

②『種種御振舞御書』建治2年(1276年)
「塚原と申ス山野の中に」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

 

③『種種御振舞御書』建治2年(1276年)
「蓮臺野のやうに死人を捨る所」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

 

④『妙法比丘尼御返事』弘安元年(1278年)
「里より遥にへだたれる野と山との中間」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

※ 妙満寺説は守護所(里)から見渡せる範囲に塚原を設定しているため

⑤『波木井殿御書』弘安5年(1282年)
「後見の家より北に塚原」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

※後見の家が特定できないため

 

妙満寺説1と妙満寺説2について

1971年に佐渡歴史文化シリーズの第2巻目として発行された『日蓮と佐渡』。
同書あとがきにもあるように この当時の諸先生方は橘正隆氏の影響が大きかったように思われます。それは日蓮聖人遺文「種種御振舞御書」内 の表現 を「六郎左衛門が家のうしろ」として考察したことによります。これも橘トラップだったのでしょうか?

(根本寺説に対して)
P84.「しかし歴史学的にまったく弱点だらけである。なぜなら、日典は日蓮の遺跡を探すに急だったゆえに、たとえば本間六郎左衛門の館がどこにあったか、などということはいっこうに考えるとこころではなかった。ここに決定的な弱点があった。」

P.90.「目黒町を塚原だと推定するもっとも大きい理由は、本間重連の館が波多にあって、その付近は広大な条理水田地帯で、野や山は目黒町村の丘陵部を除いてはまったく存在しないからである。

しかし、その後 1989年に本間嘉晴氏が発行した『日蓮と京極為兼』内にて
『種種御振舞御書』内 の表現 を六郎左衛門が家のうしろみの家より」や『波木井殿御書』の「本間六郎左衛門尉が後見の家より北に塚原と申て」と紹介したことにより
『日蓮と佐渡』の考察力が弱まる結果となりました。(私見)

また、このことは2007年に建立される「塚原碑」にも関連することと思われます。そして、2004年、田中圭一先生は『新版 日蓮と佐渡』を発行されました。

この1971年発行の『日蓮と佐渡』が妙満寺説1 2004年発行の『新版 日蓮と佐渡』が妙満寺説2になります。

新旧の大きな違いは、①塚原碑を意識してか画像や図を多用してわかりやすくなった。②日蓮聖人遺文の表現「六郎左衛門が家のうしろみの家より」を紹介(41頁)③日蓮聖人流罪時における合沢地区を含む雑太の国府所在地の否定(63頁)等です。

 

 

 

日蓮聖人の入滅後に 袂を分かつ お弟子様 と
橘法老がお亡くなりになった あとが

このふたつ 同じ景色に 映るるは 世の習いとて 不思議なりけり 岩生

 

 

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うしろみの家 の謎、日蓮聖人が語る佐渡の印象 https://sado-koi.ebb.jp/nichiren04/ https://sado-koi.ebb.jp/nichiren04/#respond Fri, 14 Dec 2018 05:35:43 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=681

うしろみの家 とは?

【種種御振舞御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.970)
(上略)同十月十日に依智を立て、同十月二十八日に佐渡國へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の佛もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ユる事なし。かゝる所にしきがは(敷皮)打しき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし。晝は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。(下略)
現 代 語 訳
10月10日に厚木市の依智を出発し、10月28日に佐渡に着いた。
住居は11月1日に本間六郎左衛門が家のうしろみの家から、塚原という山野の中にある死人を捨てる場所のお堂に移った。
一間四面のお堂で仏像もなく、屋根も壁も荒れ果てていて、お堂の中に雪が降り積もって消える事がない。こういう所に敷皮をしき、蓑(ワラを編んで作られた雨具)を着て日々を過ごす。夜は雪・雹(ヒョウ)・稲妻が絶え間なく、昼は日の光もさしこまず、心細いのが当然の住居です。

 上記の遺文から、佐渡到着が文永8年10月28日で、塚原入が11月1日とわかります。
(西暦換算すると1271年12月8日が佐渡着で、塚原入りが12月11日)

 当時は【一九年七閏法】という暦法により、文永8年の10月は30日間(文永8年の1年間は355日)(文永7年は9月が閏9月と2回あり、10月は29日間で年間384日)だったみたいです。

 そうすると、佐渡到着から塚原に入るまでの3日間、日蓮聖人はどこで過ご(宿泊)したのでしょうか?

 田中圭一先生の(2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版.によれば、P.38に

「二十八日は松ヶ崎に一泊し(中略)守護所の隣に本間六郎左衛門重連の館があった。相模国の依智で日蓮が置かれた場所も本間邸である。日蓮はこの本間氏の館で二夜を過ごしたと思われる。」

とあります。

 しかし、10月28日の松ヶ崎泊りは納得できますが、10月29日・30日の2日間の日蓮ご一行の宿泊先は、本当に本間六郎左衛門の館なのでしょうか?

 9月12日に鎌倉にいる佐渡守護の北条宣時が日蓮聖人の身柄を預かってから、佐渡到着までの45日間。守護代である本間六郎左衛門には、北条宣時からの日蓮に対する指令や罪状などの情報も、すでに届いていたはずです。

 そして、本間六郎左衛門は佐渡の実質的な管理責任者です。島で起こりうる事象を管理、コントロールしなければいけない立場です。

 本間六郎左衛門は日蓮聖人ご一行を、どのように理解し、受け止め、準備したのでしょうか?

 

その答えを遺文から探ってみますと

日蓮聖人が語る佐渡の印象と感想

【富木入道殿御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.516)
文永8年(1271年)11月23日
「人の心は同禽獣不知主師親。」
 現 代 語 訳
佐渡の人々の心は鳥やケモノのようで主君や師匠、親をわきまえない。
【呵責謗法滅罪鈔】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.789)
文永10年(1273年)
「例せば此佐渡國国は畜生の如く也。」
 現 代 語 訳
例えれば佐渡の人々は畜生のようなものである。

 

【法蓮鈔】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.953)
建治元年(1275年)4月
「からくして行つきたりしかば、殺害謀叛の者よりも猶重く思はれたり。」
現 代 語 訳
佐渡では殺人や謀反の者よりも、もっと重罪の者と思われた。

 

【一谷入道御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.989)
建治元年(1275年)5月8日
「彼島の者ども因果の理をも辦へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申計なし。」
現 代 語 訳
佐渡の人々は、因果の理もわきまえぬ粗暴者で、あたりが荒い。

 

【千日尼御前御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1544)
弘安元年(1278年)7月28日
「佐渡の国へ流されたりしかば彼國の守護等は國主の御計らいに随いて日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。」
現 代 語 訳
佐渡の守護等は北条宣時の指示にしたがって、日蓮を迫害した。島民はその命に従った。

 上記の遺文の内容から、本間六郎左衛門が日蓮聖人達の行動を制約する施策をとったことが推察されます。
また、このことは、伊豆配流の経験値が崩れた日蓮聖人の誤算でもありました。

 本間六郎左衛門は、佐渡の管理を任された守護代で中間管理職の立場です。上司の意向に沿うように、佐渡を治めなければいけません。

 日蓮聖人の類いない話術とカリスマ性・他教徒に対する考え方が危険なことは、北条宣時から聞き及んでいたと思います。
「島の平穏無事を考え、まずは様子見のためにも、日蓮達を島民から隔離し、行動を制約する。」
本間六郎左衛門はこのように考えたのだと思われます。

 ガバナンスの維持・強化の論理は、いつの世も変わらないと思います。

 そして、本間六郎左衛門が隔離するのに選んだ場所が

「うしろみの家」と「塚原」なのです。
(塚原と申山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所)

 

それにしても、「うしろみの家」とはどんな家なのでしょうか?

日蓮聖人遺文の同異

『新版 日蓮と佐渡』P.41-42に、『諸本における「遺文」の異同』と題して、次のように記述しています。

 

 本書で引用する「日蓮遺文」は、基本的に「昭和定本 日蓮聖人遺文」(平成十二年四月二十八日改定増補第三刷)に準じている。

 しかし、日蓮の「塚原配所」を考察する上で重要な、「種種御振舞書」の「六郎左衛門が家のうしろ」についての記述は、遺文を収録する諸本によって異同が見られる。私の手もとにある諸本の異同は次のようなものである。

「日蓮聖人遺文講義」(浅井要麟著)、「創価学会版 日蓮大聖人御書全集」(堀日亨編)では該当箇所を、

「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に」
と記し、

「昭和定本 日蓮聖人遺文」(立正大学日蓮教学研究)、「昭和新訂 日蓮大聖人御書」(同書編纂会編)では、

「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に」
と記している。

 意味はそれぞれ、
「六郎左衛門の家の後の塚原という山野の中に」
「六郎左衛門の家の世話人の家から塚原という山野の中に」
となる。

 前者が、「六郎左衛門の家」と「塚原」との位置関係を表す文であるのに対し、後者は単に、日蓮の移動の始点と終点を表すだけの文である。
どちらが正しいのかという論議はあろうが、本書ではこの問題には立ち入らない。どちらにしても、本書で「守護所」「本間重連の館」「塚原配所」などの場所を検討していく上で、決定的な要素としては採用しないからだ。

 また、本書で検討した結果をもって、遺文のこの箇所を振り返ったとき、どちらの読みであったとしても、矛盾を生じないということもある。

 ただ、引用するにあたっては、どちらかを選ばなければならない。何冊か日蓮関係の論文や伝記に目を通しみたが、「六郎左衛門が家のうしろみの家」説で書かれているものは見当たらなかった。

 よって本書では、大野達之助氏の『日蓮』(吉川弘文館)、石川教張氏の『日蓮聖人の生涯』(水書房)等と同様に「六郎左衛門が家のうしろ」説を取り、塚原と本間重連の館との位置関係を表す遺文として使用する。

田中先生は、「本書で引用する「日蓮聖人遺文」は、基本的に「昭和定本」としているのに

なぜ、塚原表記の部分だけ、伝記を参考にして「昭和定本」の表記にしなかったのでしょうか?

 塚原の場所が特定できないのに、
「塚原と本間重連の館との位置関係を表す遺文」として何故、使用したのでしょうか?

「遺文のこの箇所を振り返ったとき、どちらの読みであったとしても、矛盾を生じないということもある」

とありますが‥‥。

 

無間地獄ならぬ矛盾地獄!?

 

 

このことを踏まえ、あらためて「うしろみの家」の意味を

「昭和定本 日蓮聖人遺文」の表記解釈である「六郎左衛門の家の世話人の家」として時系列にしてみますと

文永8年(1271年)日蓮聖人の佐渡流罪
  • 9月12日 午後6時頃
    御勘気(幕府の怒りに触れ、罰を受ける)
    《評定所で流罪決定》【土木殿御返事】
  • 9月12日 夜
    北条宣時の管理下となる
    【土木殿御返事】
    (流罪場所が佐渡になったため)北条宣時は佐渡の守護職
  • 9月13日 午前2時頃
    鎌倉を出る《依知まで身柄を送致される》
    (依知の本間六郎左衛門邸まで)【土木殿御返事】
  • 9月13日 昼12時頃
    本間六郎左衛門の代官、右馬太郎が身柄を受取る
    【土木殿御返事】(代官所牢屋 泊)
  • 10月10日
    依智出発。身柄を佐渡まで移送
    【種種御振舞御書】(本間六郎左衛門配下による護送)
  • 10月28日
    佐渡 松ヶ崎 到着
    【種種御振舞御書】(松ヶ崎 泊)
  • 10月29日
    佐渡守護所 到着
    身柄移送完了。取り調べ。本間六郎左衛門が日蓮聖人に接見
    (佐渡守護所牢屋もしくは うしろみの家 泊)
  • 10月30日
    取り調べ完了
    (佐渡守護所牢屋もしくは うしろみの家 泊)
  • 11月1日
    塚原での流人生活の始まり
    西暦換算1971年12月11日

 

※ 本間六郎左衛門
「本間六郎左衛門重連(シゲツラ)」
佐渡での職分は、佐渡を所領地とする北条宣時(ノブトキ)の代官。
相模國依知郷を支配しており、館(城)は、金田・中依知・上依知の3ヶ所にあったといわれております。

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罪も2度目なら少しは上手に(セカンド・バツ) https://sado-koi.ebb.jp/nichiren03/ https://sado-koi.ebb.jp/nichiren03/#respond Thu, 13 Dec 2018 09:15:42 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=674 佐渡の夕景

弘長元年(1261年)の伊豆流罪から10年、2回目となる流罪。

 伊豆での経験値もあり、お金のことや、身の回りのことなど、配流先・佐渡での生活の要領は、すでに心得ていたと思われます‥。

鵞目 一結(ガモク ヒトユイ)!?

【寺泊御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』((第一巻P.512)
下段❶にて「鵞目一結給候畢。心ざしあらん諸人は一處にあつまりて御読聞あるべし」
本文では、(中略)「此入道佐渡國へ可御供之由承リ申。可レトモ然ル用途かたかた有ルノ之故ニ還。(下略)」
現 代 語 訳
「鵞目(お金)一結を頂戴しました。(中略)この入道はあなたのいいつけであるから、佐渡の国へ御供をすると云うが、なにかと面倒なことでもあるから、ここで帰すことにする。」佐渡への途中、お金も送ってもらい、「入道」という弟子は帰らすとあります。

 文永8年10月22日付の手紙で宛所は「土木(トキ)殿」(富木常忍(ときじょうにん))です。
寺泊の地でしたためられたので、寺泊御書と云われています。

 やはり、いつの世も 先立つものは同じです。

『鵞目(がもく・ちょうもく・ががん)』(宋銭)

鵞鳥(ガチョウ)の目のような、穴が開いているので鵞目というそうです。
(ガチョウの目は丸いと思うのですが‥。)

【宋銭】(そうせん)
宋(中国)との貿易で砂金を輸出し、かわりに宋の銅銭を輸入して日本国内で使っていました。
寺泊御書寺泊御書 第七紙 『日蓮聖人真蹟集成』2巻111頁から転載
 寺泊御書は、ほとんど漢字です。日蓮聖人は宛先別に表記を変えていたみたいです。当時は字を読める人もが少なかったみたいで、配達するお弟子さんが手紙を読み聞かせ伝るするために、自分がわかるよう加筆してある書簡も結構あるみたいです。

 

 ところで、日蓮聖人が送ってもらった「鵞目一結」とは、
貨幣何枚で1結びなのでしょうか? 96文? 100文? 1,000文(1貫文)?

 ちなみに、当時の貨幣価値はwebサイト『国立歴史民俗博物館』のデーターベース検索でわかります。

 調べたところ、文永6年から文永12年の7年間で、お米取引のデーターが23件あり、お米1斗(10升)あたりの平均単価が97文でした。

 また、当時は現在の容量とは異なるみたいで、延久4年(1072年)の宣旨枡が文永年間にも通用していたとしたら、現在の約4.5合が当時の1升の計算になるみたいです(石川英輔(2003)『ニッポンのサイズ』淡交社)。

 お米1合が約150g。佐渡産コシヒカリ10㎏がスーパーで4,580円税別(2017年)で売っております。

 そうすると、「鵞目一結」を現在の貨幣価値(お米換算)でみてみると、100文だと約3,500円。1貫文だと約35,000円という計算になります!?

※文永10年(1273年)7月6日【土木殿御返事】では、「鵞目二貫」を送ってもらってます。(7万円相当?)

 

日蓮聖人ご一行様の来島は、都合何名?

岩間徳太郎(1939)『註附 佐渡名勝誌』によれば、

 「佐渡風土記「文永八年辛午十月廿八日、上下七八人にて越州寺泊より乗船にて、(中略)松ヶ崎村ニ着岸し玉へり(小名カウノ瀬)(下略)」

とあり、日蓮聖人ご一行は7~8名で佐渡に上陸したのでしょうか?

また、遺文によりますと

【呵責謗法滅罪抄】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.790)
「是へ流されしには一人も訪人もあらじとこそおぼせしかども、同行七八人よりは少からず。」
現 代 語 訳
佐渡配流になって一人も訪ねてくる人はないと思っていたが、同行者は、7~8名より、少なくはない。?

つまり、8名より多い9名+日蓮聖人で = 日蓮聖人ご一行10名様でしょうか?

いづれにせよ、文永8年10月28日。西暦換算しますと1271年12月8日に日蓮聖人ご一行は佐渡の土を踏みました。

また、佐渡到着から25日後の文永8年11月23日(西暦換算1272年1月2日)、護送先の塚原の地で書かれた富木常忍に宛てた手紙には

【富木入道殿御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.517)
「小僧達少少還ヘシ候。此國ノ爲體 在所之有様 可有ル御問候。難候。」
 現 代 語 訳
「小僧達を何人か帰した。この佐渡の様子や、住んでいるところの様子を聞いてください。内容は手紙には書けません。」

 とあり、はたして何人帰って、何名残したのでしょうか?
また、手紙に書きにくい内容とは何だったのでしょうか?

罪も二度目なら 少しは器用に‥。

日蓮聖人の流罪に対する認識と現実が少し違っていたみたいです。

 

 

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此度の罪状認否、日蓮聖人だけあって “承認” https://sado-koi.ebb.jp/nichiren02/ https://sado-koi.ebb.jp/nichiren02/#respond Wed, 12 Dec 2018 10:49:25 +0000 https://sado-koi.ebb.jp/?p=671 七浦海岸1

日蓮聖人の佐渡流罪になった原因は何だったのでしょうか?

 日蓮聖人遺文の現代語訳は『創価教学研究室(Tommyのブログ)』というサイトに載っており理解するのに助かりました。

 あと、田中圭一先生の (2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版. を図書館から借りて読んでみました。すごく参考になります。しかし、だんだんと理解が進むにつれ、疑問も自ずと出てくるのであります。

 なお、当ブログで参考にし、引用した書籍は、
立正大學日蓮教學研究所(1988)『昭和定本 日蓮聖人遺文』總本山見延久遠寺, です。
引用部分の「遺文」には巻数と所在ページを表記し、下段に青枠で「現代語訳」をつけてみました。

日蓮遺文

 

 さて、日蓮聖人が佐渡流罪になった原因はと何なのでしょうか?
その答えを遺文(日蓮聖人の手紙)でみると

【種種御振舞御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.962)
「故最明寺入道殿・極樂寺入道殿を無間地獄に堕たりと申、建長寺・壽福寺・極樂寺・長樂寺・大佛寺等をやきはらへと申、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申(中略)奉行人の云く上のをほせかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがはず申(下略)」

とあり、要約しますと

現 代 語 訳
鎌倉幕府の奉行人が日蓮聖人に尋ねました。
「故 北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)や北条重時が無間地獄に堕ちたので、禅宗の建長寺・臨済宗の寿福寺・真言律宗の極楽寺・浄土宗の長楽寺や大仏寺を焼き払え。そして建長寺の道隆上人や、祈雨対決した極楽寺の良観上人の首をはねろ」
ということを本当にあなたは、言いましたか?
日蓮聖人の答えは「はい、一言一句間違いなく言いました」

となります。

 言葉尻を捕らえますと、今の時代なら、さしずめカルト集団とみなされ、テロ等準備罪適用となりますでしょうか!?

 当時の御成敗式目に照らし合わせても、第九条の謀叛人事・第十条の殺害刃傷罪科事や第三十三条の強竊二盜罪科事付放火人事に抵触し、死罪は間違いないと思われます。

 しかし、

【種種御振舞御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.973)
「又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが、守殿の御臺所の御懐妊なれば、しばらくきられず。終には一定ときく。」
現 代 語 訳
本来なら死罪ですが、当時、北条時宗夫人がご懐妊したので、僧の斬首を忌み嫌った幕府が流罪にした模様です。

また、文永8年9月14日書作、富木常忍 に宛てた手紙によりますと

【土木殿御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.503)
(上略)
「此十二日酉時御勘氣。武蔵守殿御あづかりにて、十三日丑時にかまくらをいでゝ、佐土の國へながされ候が、たうじはほんま(本間)のえちと申ところに、えちの六郎左衛門尉殿代官右馬太郎と申者あづかりて候が、いま四五日はあるべげに候。御歎はさる事に候へども、これには一定と本よりご(期)して候へばなげかず候。いままで頸の切ぬこそ本意なく候へ。法華經の御ゆへに過去に頸をうしなひたらば、かゝる少身のみ(身)にて候べきか。」(下略)
 現 代 語 訳
9月12日の午後6時頃、鎌倉幕府から処罰を受けた。(流刑地が佐渡になったため、佐渡守護である)北条宣時の管理下に置かれる。9月13日午前2時頃、鎌倉を出て佐渡に向かう。現今(9月14日)は(北条宣時の配下の)本間六郎左衛門の領地である依知(厚木市)という所にいる。ここでは、本間六郎左衛門の代官である、右馬太郎という者の管理下に置かれた。4~5日間は、この地にいるみたいだ。(あなたは)嘆くけど、このことは最初から決まっていて変わらないことなので嘆かないでほしい。それより今まで死罪にならないことこそ不本意なのです。法華経のために死罪になっていれば、こんなに肩身が狭い身でいただろうか。

とあります。

日蓮聖人自身が法華経のためなら、死をもいとわない強い覚悟があったようにうかがえます。

それにしても、思い込んだら一直線の一途で強運な男「日蓮」である!?

 

【日蓮聖人遺文】とは

 日蓮聖人が書いた手紙などのことで、紙数にして約2,700枚が現存しているみたいです。
日蓮聖人直筆の遺文を「真蹟」と言い、かつては真蹟が存在したものを「曽存」と言うそうです。
(明治8年の身延山の火災で焼失した模様です)

 このWebで参考にした『昭和定本日蓮聖人遺文』は、昭和63年(1988年)改訂増補版で図書館内で閲覧できました。(図書館の方、色々ありがとうございました。)

書籍は 4巻あり、ページ番号は4巻通しの番号となっています。
また、1から2巻は制作年順に収録されています。

第1巻は、第一輯正編上として、下戒體即身成佛義から法蓮鈔の175編。

第2巻は、第一輯正編下として、種種御振舞御書から波木井殿御書の259編があり、2巻併せて1から434番の通し番号が付いています。

第3巻は、第二輯続編として、1から55番までの55編と、第三輯図録として30編。第四輯断簡として179編。第五輯講記で2点。第六輯 目録目が19点あります。

第4巻は、正編新加として435番から443番の9編等、編纂後あらたに発見された真蹟の図録や断簡が収録されています。

※昭和63年改訂増補版だと、443編が正編になっているので、これ以外は真蹟ではない贋作の可能性がある作品ということになります。

ちなみに、偽物といわれる「遠藤左衛門尉御書」は第3巻P.2102にあります。

 

 

 

 

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プロジェクト名「2021年を佐渡の大観光交流年に!」

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2021年は、こんな年です。

続日本紀によりますと
722年(養老6年1月20日) 上多治比眞人三宅麻呂(たじひの みやけまろ) が坐誣告謀反、穗積朝臣(ほづみのあそみ)老(おゆ)が指斥乘輿で死罪になるところを皇太子(聖武天皇)の計らいで多治比さんは伊豆に、穂積さんは佐渡に配流になったとあります。
ちなみに指斥乘輿とは、元正(げんしょう)天皇の乗物を指さして議論したのではなく、元正天皇を批判(非難)したの意で多治比さんとセットの出来事と思われます。

724年(神亀元年3月1日)「定諸流配遠近之程 伊豆 安房 常陸 佐渡 隠岐 土左六国為遠」とあり、佐渡が配流の地として正式に指定されました。

以来、佐渡は幾人もの都人(貴族や知識人)を受け入れ、吸収してきました。

順徳上皇、日蓮聖人、世阿弥の3名は中学校で習う歴史に登場する人物で、教科書にも載っています。

  • 承久の乱と、その後の動き 順徳上皇の追放地ー佐渡
  • 日蓮は、法華経こそが真の教えで、~
  • 観阿弥と世阿弥によって大成された能(能楽)は、~

そして、1221年(承久3年7月20日)に順徳上皇が(※7月21日と2説あり)
1271年(文永8年10月28日)に日蓮聖人が佐渡に着いた日になります。

2021年は、順徳上皇が佐渡に着かれてから、ちょうど800年。
日蓮聖人は750年になります

順徳上皇800年と日蓮聖人750年。2021年は記念すべき年です。
佐渡観光という名の交流人口の拡大が期待できる年です。

何をどうするのかは未知数ですが、チャンスにできると思います。

準備に早めは ありません。予算の兼ね合いもあるでしょうが観光圏の地域間競争に負けないよう準備を進めるには2019年がリミットです。

 

ちなみに、個人的には「世阿弥の道(日蓮聖人の道)トレイルランニング大会」の開催と

佐渡市と厚木市が姉妹都市提携し自治体間交流ができればと願っております。

 

2021年を佐渡の大観光交流年に!

 

 

そこで、佐渡と日蓮聖人の関係を調べてみました。

ホンマでっか!? St.Nichiren in Sado

「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」として佐渡金銀山がユネスコの世界遺産暫定リストに記載されたのが2011年。三度目の正直の言葉も虚しく、本年(2017年)も国内推薦から外されてしまいました‥。
今年こそはと、淡い期待を保っている中での落選の知らせは、私の四十数年前の失恋の記憶を呼び起こし、忘れていた ほろ苦い失望感と虚脱感を体感しました。

そんな中、NPO法人佐渡成長戦略政策塾の塾長兼理事長でもある小菅徹也先生が、東京オリンピックの翌年の2021年は「日蓮聖人生誕800年祭」である旨を教えてくれました。

小菅先生はご自身のFacebookで『日蓮観光復活序論』を展開し、「2021年の日蓮聖人生誕800年祭は、何が何でも佐渡観光復活の最後のチャンスとして活かしたい」 「それには歴史的評価に十分耐えられる本物の日蓮聖蹟を厳選し、コースを選定して最適なガイドブックを用意した『日蓮聖人生誕800年祭・佐渡法難750年祭向けの日蓮聖蹟巡拝ツァー事業』を展開したい」とおっしゃっております。

文化庁の平成28年版宗教年鑑によれば、日蓮聖人系の文部科学大臣所轄の包括宗教法人が39法人で信者数11,892,539名。創価学会などの単立宗教法人を含めれば、日蓮聖人系信者数は約2,050万名となります。

仮に、その中の5%の方々が2021年に佐渡にお越しいただけたら、

年間1,025,000名!?

 ホンマでっか!?St.Niciren。

佐渡観光に光を!

日蓮聖人関係の皆様、2021年 SADO KOI(来い)。

お待ちしております。

 

 

佐渡に残る 日蓮聖人遺文

恥ずかしながら、私の知ってる日蓮聖人といえば、佐渡歴史伝説館にあるロボットぐらいでした。しかし、この度の2021年を迎えるにあたり、予習しなければならないと思い、ちょっぴり調べてみました。

日蓮聖人遺文とか、約750年前の資料が残存すのにビックリです。

その中に佐渡市阿佛坊の妙宣寺に、国指定の重要文化財となっている、日蓮聖人筆書状が3巻あります。

① 建治元年六月十六日 (1275年)【国府尼御前御書】

② 弘安元年七月廿八日 (1278年)【阿仏房尼御前御返事】(千日尼御前御返事)

③ 弘安三年七月二日  (1280年)【故阿仏房尼御前御返事】(千日尼御返事)

是非、2021年には 妙宣寺にて、国府尼御前御書の真跡を拝してみたいものです。

国府尼御前御書(第七紙)① 国府尼御前御書(第七紙)『日蓮聖人真蹟集成』2巻252頁から転載

まるっきり、何が書いてあるのか、私には わかりませんが
活字に起こしたのを見て、改めて見直すと、ひとりの漢・日蓮 が垣間見えます。

国府尼御前御書(訳)

国府尼御前御書(現代語訳)

 

現代語訳

  とても大切な夫を、使いとして訪ねてくだされた。
あなたの御姿は見えないのに、夢か幻であろうか
あなたの心は、ここにいらっしゃるように思われる。
日蓮を恋しく思われるなら、いつでも、出る月や夕日を拝みなさい。
あなたが願えば、いつでも月影に私を感じることができます。
また、あの世でも、霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう。

 

Oh! アメージング!こんな手紙もらったら、

どんな女性も イ チ コ ロ!?

まさに SADO の KOI文(ふみ)

尚、2021年。妙宣寺での【国府尼御前御書】の一般公開が、このプロジェクト最大のミッションと考えております。

当然、レプリカ(実寸大)で構いません。特に宗派・宗教を問わず、女性に見てもらいたい書といえます。躍動感溢れる日蓮聖人の筆使いから、750年の時空を超える、恋のパワーと思いやる心を感じとってください。

阿仏のご住職様、関係機関の皆様、佐渡観光の明るい未来ため、忖度のほどよろしくお願いいたします。

 

 

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