弘長元年(1261年)の伊豆流罪から10年、2回目となる流罪。
伊豆での経験値もあり、お金のことや、身の回りのことなど、配流先・佐渡での生活の要領は、すでに心得ていたと思われます‥。
鵞目 一結(ガモク ヒトユイ)!?
下段❶にて「鵞目一結給候畢。心ざしあらん諸人は一處にあつまりて御読聞あるべし」
本文では、(中略)「此入道佐渡國へ可キ為ス御供之由承リ申ス之ヲ。可レトモ然ル用途ト云ヒかたかた有ルノ煩ヒ之故ニ還ス之ヲ。(下略)」
「鵞目(お金)一結を頂戴しました。(中略)この入道はあなたのいいつけであるから、佐渡の国へ御供をすると云うが、なにかと面倒なことでもあるから、ここで帰すことにする。」佐渡への途中、お金も送ってもらい、「入道」という弟子は帰らすとあります。
文永8年10月22日付の手紙で宛所は「土木(トキ)殿」(富木常忍(ときじょうにん))です。
寺泊の地でしたためられたので、寺泊御書と云われています。
やはり、いつの世も 先立つものは同じです。
『鵞目(がもく・ちょうもく・ががん)』(宋銭)
鵞鳥(ガチョウ)の目のような、穴が開いているので鵞目というそうです。 |
【宋銭】(そうせん) 宋(中国)との貿易で砂金を輸出し、かわりに宋の銅銭を輸入して日本国内で使っていました。 |
寺泊御書 第七紙 『日蓮聖人真蹟集成』2巻111頁から転載 |
寺泊御書は、ほとんど漢字です。日蓮聖人は宛先別に表記を変えていたみたいです。当時は字を読める人もが少なかったみたいで、配達するお弟子さんが手紙を読み聞かせ伝るするために、自分がわかるよう加筆してある書簡も結構あるみたいです。 |
ところで、日蓮聖人が送ってもらった「鵞目一結」とは、
貨幣何枚で1結びなのでしょうか? 96文? 100文? 1,000文(1貫文)?
ちなみに、当時の貨幣価値はwebサイト『国立歴史民俗博物館』のデーターベース検索でわかります。
調べたところ、文永6年から文永12年の7年間で、お米取引のデーターが23件あり、お米1斗(10升)あたりの平均単価が97文でした。
また、当時は現在の容量とは異なるみたいで、延久4年(1072年)の宣旨枡が文永年間にも通用していたとしたら、現在の約4.5合が当時の1升の計算になるみたいです(石川英輔(2003)『ニッポンのサイズ』淡交社)。
お米1合が約150g。佐渡産コシヒカリ10㎏がスーパーで4,580円税別(2017年)で売っております。
そうすると、「鵞目一結」を現在の貨幣価値(お米換算)でみてみると、100文だと約3,500円。1貫文だと約35,000円という計算になります!?
※文永10年(1273年)7月6日【土木殿御返事】では、「鵞目二貫」を送ってもらってます。(7万円相当?)
日蓮聖人ご一行様の来島は、都合何名?
岩間徳太郎(1939)『註附 佐渡名勝誌』によれば、
とあり、日蓮聖人ご一行は7~8名で佐渡に上陸したのでしょうか?
また、遺文によりますと
「是へ流されしには一人も訪人もあらじとこそおぼせしかども、同行七八人よりは少からず。」
佐渡配流になって一人も訪ねてくる人はないと思っていたが、同行者は、7~8名より、少なくはない。?
つまり、8名より多い9名+日蓮聖人で = 日蓮聖人ご一行10名様でしょうか?
いづれにせよ、文永8年10月28日。西暦換算しますと1271年12月8日に日蓮聖人ご一行は佐渡の土を踏みました。
また、佐渡到着から25日後の文永8年11月23日(西暦換算1272年1月2日)、護送先の塚原の地で書かれた富木常忍に宛てた手紙には
「小僧達少少還ヘシ候。此國ノ爲體 在所之有様 可ク有ル御問候。難ク筆セ端ニ候。」
「小僧達を何人か帰した。この佐渡の様子や、住んでいるところの様子を聞いてください。内容は手紙には書けません。」
とあり、はたして何人帰って、何名残したのでしょうか?
また、手紙に書きにくい内容とは何だったのでしょうか?
罪も二度目なら 少しは器用に‥。
日蓮聖人の流罪に対する認識と現実が少し違っていたみたいです。
このページは、特定の個人・団体等を誹謗中傷するものや、思想、信条等を差別し、又は差別を助長させるものではございませんのであらかじめご了承下さい。
コメント