★★ 佐渡を世界遺産に! 佐渡金銀山絵巻でみる錬金術師たち ★★

HONMAがいた時代。日蓮聖人と天地人でみる佐渡年表

HONMAがいた時代。日蓮と天地人でみる佐渡年表

和暦年西暦年(西暦換算月日)
平安末期今昔物語 巻二六に佐渡の国で金が採れるとの記載あり。(西三川砂金山)
延暦21年802年「佐渡國の塩120石を年毎に出羽國の雄勝城に送る。鎮兵の糧と為す」

『日本紀略 正月の条』

天徳 4年960年3月30日(4月28日)
天徳内裏歌合 二十番・右 平兼盛
文治元年1185年11月28日(12月21日)文治の勅許
建久 8年1197年9月10日(10月22日)守成(順徳)誕生
承久 4年1222年2月16日(4月6日)日蓮誕生
1225年慶子女王誕生(守成28歳)
嘉禄 2年1226年7月1日 甲寅 晴
亥の刻地震。今日、橘右馬の允公高並びに本間太郎左衛門の尉忠貞・小河左衛門の尉・同右衛門の尉等、去る承久三年六月の勢多合戦の勧賞を蒙る。彼の輩相州の陣に加わり軍忠を励むと雖も、未だその賞に預からざるの間、相州連々挙し申さるるの処、猶許容無きに依って、自分の勲功の賞伊勢の国十六ヶ所の内、四ヶ所を辞し、御下文を申し與へしめ給うと。7月5日 天晴 [明月記]
心寂房来たり談る。河東の武士本馬左衛門の妻他行の間、竊盗その宅に入り、衣装・資財余残無く取り尽くすと。

『吾妻鏡』
※ 相州=相模守・北條時房(1175~1240)(北条宣時の祖父)

貞永 2年1233年1月1日 丙午
椀飯(相州御沙汰)。御劔(民部権の少輔)、御弓箭(近江の前司信綱)
御行騰沓(佐原三郎左衛門の尉家連)。
一の御馬(鞍を置く) 式部大夫  陸奥の五郎
二の御馬       相模の四郎 同六郎
三の御馬       上野の七郎 同五郎
四の御馬
五の御馬   本間太郎左衛門の尉 同三郎左衛門の尉

『吾妻鏡』

仁治 3年1242年9月12日(10月7日)守成死去(45歳)(慶子17歳)
文永6年1269年4月22日(5月1日)
松前神社の下行札に、当地頭本間山城口口 の文字。佐渡に於ける本間文証の初見。

『河崎村史料編年志』

☆★ 本間太郎左衛門忠貞と本間六郎左衛門重連との血縁は? ★☆
 地頭本間山城口口 は国地頭? DNAは?
 佐渡での 公武二元支配とは??

文永8年1271年9月12日(10月24日)
午後6時頃に日蓮聖人、御勘気を受ける(怒りにふれとがめを受ける)。
結果、日蓮聖人は武蔵守殿の預りとなる。

『土木殿御返事』

※ 武蔵守=北条宣時(ノブトキ1238~1323)(北条時房の孫)
(別名・大仏宣時オサラギ・当時の佐渡守護)

武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでし

『種種御振舞御書』

9月13日(10月25日)
午前2時頃、依知に向けて鎌倉を出る。
当分の間、本間の領地で依智の六郎左衛門尉殿の代官・右馬太郎に預けられる。

『土木殿御返事』

昼12時頃、依智の六郎左衛門の家にはいる。

『種種御振舞御書』

9月14日(10月26日)
書作 『土木殿御返事』 (宛所 土木殿御返事)(与富木常忍)
10月 書作 『佐渡御勘気抄』 (宛所 なし)
10月 9日(11月19日)
書作 『五人土篭御書』 (宛所 五人御中)
(牢を出たら、明年の春かならず佐渡へおいでなさい。お会いしましょう)
10月10日(11月20日)
依智出発。 『寺泊御書』 『種種御振舞御書』
10月21日(12月 1日)寺泊到着。 『寺泊御書』
10月28日(12月 8日)
佐渡へ到着。 『種種御振舞御書』・松ヶ崎村に着岸。 『佐渡風土記』
11月 1日(12月11日)塚原に入る。 『種種御振舞御書』
11月23日( 1月 2日)
書作 『富木入道殿御返事』 (宛所 富木入道殿御返事)
(連れてきた小僧を少し帰したから、島の状況や住まいの様子を聞いてくれ、詳しいことは手紙では書けない)
文永9年1272年(日蓮50歳・慶子47歳)
1月16日(2月23日)
塚原で法門対決(塚原問答) 『種種御振舞御書』
2月18日(3月25日)
船が着き鎌倉や京都でいくさがあり大変であるという。
六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡っていった。

『種種御振舞御書』

3月 ※ 二月騒動の連座として世良田頼氏・渋川義春が流罪
3月20日(4月26日)
書作 『佐渡御書』 (宛所 日蓮弟子檀那等御中)
(書籍なども、佐渡に来る人に持たせてほしい)
4月10日(5月15日)
書作 『富木殿御返事』 (宛所 土木殿)「鵞目員数の如く給び候」
(お金は予定の額の通り受け取りました)
4月13日(5月18日)
書作 『最蓮房御返事』 作 (宛所 最蓮房御返事)
(夕方は特に用心して来てください)(都からの数々の品物は確かに受け取りました)
文永10年1273年4月26日(5 月21日)
書作 『富木殿御返事』 (宛所 富木殿御返事)
「帷一つ・墨三長・筆五官給び候い了んぬ」
7月 6日(8月26日)
書作 『土木殿御返事』 (宛所 土木殿御返事) 「鵞目二貫給候い畢んぬ、」
文永11年1274年2月14日(3月30日)
日蓮聖人の赦免状が発行される。 『種種御振舞御書』
3月8日(4月23日)
赦免状が佐渡に着く。 『種種御振舞御書』
3月13日(4月28日)
日蓮聖人、佐渡出発。 『種種御振舞御書』
3月26日(5月11日)
日蓮聖人、鎌倉帰還。 『種種御振舞御書』
文永12年1275年4月12日(5月16日)
書作 『国府入道殿御返事』 (宛所 こう入道殿御返事)
「あまのりのかみぶくろ~」
建治元年1275年4月 書作 『法蓮抄』 (宛所 なし)
5月 8日(6月10日)
書作 『一谷入道御書』 (宛所 一谷入道女房)
6月16日(7月17日)
書作 『国府尼御前御書』 (宛所 さどの国のこうの尼御前)
建治2年1276年書作 『種種御振舞御書』 (宛所 なし)
弘安元年1278年4月12日(5月12日)
書作 『是日尼御書』 (宛所 尼是日)
「さどの国より此の甲州まで入道の来りたりしかば」
7月28日(8月24日)
書作 『千日尼御前御返事』 (宛所 佐渡国府阿仏房尼御前)
「阿仏房にひつを・しおわせ夜中に度度~」
9月6日(9月30日)
書作 『妙法比丘尼御返事』 (宛所 妙法尼御前 御かたへ)
弘安 2年1279年11月30日(1月10日)
書作 『中興入道消息』 (宛所 中興入道殿女房是)
弘安 5年1282年10月13日(11月21日)日蓮 逝去(60歳)
弘安 7年1284年8月、北条時光 流罪。(興福寺の満実法印と陰謀を企てるが発覚し、拷問の末に佐渡国へ流罪)

『鎌倉年代記』

弘安 8年1285年6月、小木半島木浦郷の郷守護代職を兄本間宣定と弟本間重久の争いを北条宜時裁断を下す
弘安 9年1286年順徳第一皇女 慶子女王 逝去(61歳)
永仁 6年1298年京極為兼 流罪(44歳・1254年生まれ)
嘉元元年1303年京極為兼 帰京
徳治 3年1308年本間左衛門十郎(雑太本間氏の祖)が熊野権現を建立『古佐渡本間系図』
正中 2年1325年中納言日野資朝が佐渡に流さる
元弘 2年1332年資朝の殺害令が佐渡の守護代本間氏にくだされた。『太平記』
元弘 3年1333年5月、本間山城左衛門 鎌倉に於て北条家のため奮戦の後自尽すという。鎌倉幕府滅亡。
貞和 4年1348年8月、本間山城六郎紀伊凶徒退治のため発向すべき下知を受く 『河崎村』
明徳 2年1391年7月、備中守義孝幕府内の訴訟の経過を本間山城弥次郎に報ず 『河崎村』
応永21年1414年2月、本間山城道昭?後家妙義尼に所領を譲る 『河崎村』
永享 6年1434年世阿弥 流刑。

 

文明15年1483年4月11日
久知の地頭、越後の雲洞庵 四世 雪心禅立大和尚を請して晃照寺を伝法開山。
※ 真言宗から曹洞宗となり、その後末寺四ヶ寺を有する。(湖鏡庵・大栄寺・瑞芳寺・源秀院)
永正6年1509年7月、上杉顕定の侵攻により敗れ、越中を経て佐渡(三川 邑山寺)にて隠遁していた長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実は羽茂・雑太の援兵を得て越後に渡った。
(長森原の戦い)
その時の恩賞として赤泊対岸の越後の地、久田・郷本・渡部の三ヶ所を羽茂本間に、宮川・新保・椎屋・落水の四ヶ所を雑太本間に宛行われた。

『赤泊村史稿本/河崎村』

大永7年1527年大永四年七月、久知宮浦と羽茂の間に軍起こり国仲大乱。この4月最も激戦を演じ、漸く上杉定実の仲裁斡旋によって鎮定。
(大永五年酉五月十五日炎上、羽茂・吉井両方ヨリヨセテ、宮浦・波多・目黒町・雑太フセクナリ、申年七月三日ヨリ弓矢始マル。)(約4年間の佐渡全土を巻き込んだ戦乱だったみたいです)

 『慶宮寺什物大蔵経裏書/河崎村』

天文12年1543年鶴子銀山はじまる。
天文十一年に越後国の外山茂右衛門と云う者数年当国へ商いのため渡海していたが、ある夜に入り沢根沖を馳通り船中より見ると、沢根に当り真鉄(まかほ)吹く炎の如き光が空に映って怪しく、船を近く寄せこれを見るのに沢根の奥山に金気の立つを見た。そこでここの者と語り合い、沢根城主本間摂津守永州に訴え月額銀百枚を運上することとし、銀山を稼いだ。※ 年運上額は千二百枚=銀五一貫六百匁=193.5kg(100枚×12カ月)
この時はじめて、石見銀山から佐渡へひ追いの坑道掘りと銀鉱製錬の灰吹法が伝播した。

『佐渡古実略記/河崎村』

天文12年1543年滝沢銀山(新穂銀山)はじまる。
弘治元年1555年この年 松浪遊仁 西三川砂金山を稼ぐという。 『佐渡古実略記/河崎村』
永禄2年1559年6月11日、長尾景虎(謙信)、 佐渡産の金銀を京洛の諸所に贈与する。
「 … 此悉ク分内佐州ノ産ニシテ年々ニ其産限リナシ … 」

『上杉家御年譜』

天正6年1578年3月13日、謙信 卒中風で逝去。 『上杉家御年譜』
天正9年1581年景勝、 潟上本間帰本斉に、巻物を贈って答報する。(連携)

『歴代古案/越佐資料』

天正10年1582年4月24日
景勝、 潟上本間帰本斉に誓詞(起請文)を送る。

『歴代古案/越佐資料』『上杉家御年譜』

4月26日
景勝、 久知本間下総守と血判誓詞(起請文)を交換。
(信長と雌雄を決する覚悟を決めた景勝は血判誓詞を取り交わして、佐渡駐留の越後兵を皆引揚さした。)

『木村正辞氏所蔵文書/越佐資料/河崎村』

6月2日 本能寺の変。
6月12日
景勝、7名の地頭へ本能寺の変を通達。
本間対馬守(高季、羽茂地頭、天正15年死)
 本間但馬守(上新穂地蔵という)
 本間信濃守(高泰、雑田地頭)
本間弥太郎(季直、泉地頭か)
 本間下総守(泰時、久知地頭)
本間帰本斉(秀高、潟上地頭)
 本間山城守(高統、河原田地頭)

『本間文書/越佐資料/河崎村』


秀吉、須田満親を介し景勝に提携を申し入れる。

『新潟県史通史編2』

天正11年1583年景勝、 秀吉と誓書を取り交わし、連携をはかる。

『新潟県史通史編2』

天正12年1584年景勝・兼続、 この頃より佐渡・出羽の領有について秀吉に働き掛けるか。

8月16日
増田長盛と石田三成の連署状(兼続宛の覚書)に
「 …一、出羽・奥州・佐州之儀 景勝様御取次之段 先度如被申談候たるへき事。… 」

『景勝公諸士来書/上越市史別編2』

8月22日
景勝、 河原田の山城守に使者、後藤入道を遣わし、羽茂との和睦を勧説。
信書に「羽茂・河原田干戈未落居の由 … 国中一統相静まられ、前々の如く、一族中甚深尤に候」
(羽茂と河原田の争いがまだおさまっていないようなので、助言のため使者を送ります。お互いの立場をよく聞き、島内一統が平和に以前のように仲よくすることを望みます。後藤入道より口上で詳しく申し上げます。)

『大和田上杉家文書/河崎村・新潟県史資料編5』

10月14日
本間弥太郎、 返書を直江兼続に送る。
尊札頂戴、諒以恐悦至極候、然間、此国一和如御取刷、後藤左京入道被差越候段、彼雖御口才各承候、敵方私へ依申事 時宣不致落着候、偏愚之迷惑不過之候、随而以別紙直江山城守殿江申述候、定而可被達御上覧候、雖後藤左入可有御口上候、此等之趣披露所仰候、恐々謹言。
十月十四日
本間弥太郎

直江山城守殿

『景勝公御留書/越佐資料稿本/河崎村』

天正13年1585年3月7日
景勝、 再び使者、後藤左京入道を佐渡へ派遣。 【上杉家御年譜』
天正14年1586年5月16日
景勝、 兵糧米ニ百俵を佐渡へ送る。
※ 佐州ノ将士本間太郎左衛門尉兵糧弐百俵、佐州ニ運漕スルニ依テ、出雲崎ノ港ヨリ※ 相違ナク渡海イタスベキ由、仰出サレ出雲崎の港ヘ御朱印アリ。

『上杉家御年譜』

5月20日
景勝・兼続一行、越後出立。
6月7日京都着。6月12日秀吉に謁見。
6月22日
景勝、 参内し、従四位上左近衛権少将に任じられる。
6月23日
景勝、 秀吉より佐渡成敗方を許す直書を賜る。
(佐渡平定のことを其方に申しつける。これまで佐渡の地頭たちは勝手な行動をしてきているが、今後は其の行動を厳しくただし、秀吉が天下を治めるための方針を厳しく申し渡せ、それでも其方の意見に従わなかったら、速やかに滅ぼしてしまえ。)

『新潟県史資料編3』

6月24日
景勝・兼続一行、京都発足帰路。7月6日春日山に帰城。

『新潟県史通史編2』

7月17日
景勝、 久知本間与十郎に越後に出仕を命じ、出仕しない者は討ち果たすと通達。
(いよいよ今度佐渡一円を当方へ渡すことになったので潟上や河原田に春日山へ出てくるように申しつけた。其方はこれまで忠信をを尽くしてきているので渡海してあいさつに来るものと思う。…。潟上や河原田が出てこないならば、討果す所存である。)

『本間文書/越佐資料稿本/河崎村』

天正16年1588年5月16日
景勝、 再上洛中、秀吉と対面。
※ この時点で佐渡平定後の金銀山の密約(産金の上納)が確立したと推察される。

(撮要年代記・佐渡古実略記等にて)

8月23日
景勝、 帰国途中で、またも佐渡へ後藤左京入道を派遣。

『新潟県史通史編2』

※ 表向きは仲裁だが、真の狙いは佐渡攻めに対応した南佐渡連合の情報収集と同盟領主との確認で、兼続の巧みな戦略と推察される。

11月28日
羽茂対馬守高季、 河原田と和睦の件を春日山に答報する。
御貴札之趣拝見、欣悦至極奉存候、仍而当国和睦之段被仰下候、拙者一門各奉存其旨、雖古今之欝憤候、抛諸事可任御上意候処、敵方河原田・吉井・潟上被背御尊意、承引不被申事、全拙夫非疎略候。然而御貴州弥以御繁昌之由珍重存候、委曲直江山城守へ申理候条、宣被上聞候間、不能審候、恐々謹言。
十一月二十八日
  本間対馬守高季
        春日山
(和睦の事を仰せ下され、私共もそのように考えておりました。長い間の鬱憤がありますが何事も棄てて御上意に従います。敵方の河原田・吉井・潟上が貴方様のお考えに背くようであれば、それは全て私のせいではありません。)

『志賀槇太郎文書/越佐資料稿本/河崎村』

※ 後藤左京入道が持ち掛けた内容を、真に受けた結果と思われる

佐州ノ将士本間對馬守高秀ノ書到来ス 抑佐州ノ士河原田 吉井 潟上 神保 羽茂等ハ謙信公ノ御代ヨリ御手ニ属シ 諸事御政道ニ違背セス 今モッテ御下知ヲ加ヘラル 然ル処ニ右ノ五士等武名ヲ背キケル間 来春ニ至リテ佐州へ渡海有て 御仕置を加へラルヘキトナリ 先佐州ノ属士本間對馬守ニ仰セ合サル 對馬守ハ謙信公ノ御代ヨリ今ニ至テ変心ナク越府ニ属シケレハ 先頃御書ヲ遣ハサレ軍議ヲシ玉フモ此ニ依テナリ 其返翰云

『上杉家御年譜』

天正17年1589年2月5日
景勝、 佐渡平定の出陣命令を出す。
「御陣觸アリ 當四月佐州ニ御渡海有テ逆徒三河守 神保安藝守ヲ御誅罸有ヘキタメナリ コレニ依テ供奉ノ面々 軍旅の用意致スヘキ旨厳命アリ」

『上杉家御年譜』

3月2日
景勝、 沢根本間左馬助に板倉式部少輔を派遣し、忠節を賞す。
(相変わらずお前の忠節に感じ入っている。旧冬に約束したように佐渡へ渡ることのできる日を待っている。お前も用心堅固に構え、近くに迫った渡海を待て。)

『河崎村・新潟県史通史編2』

3月上旬
景勝、 廣泰寺(現 新潟市北区白勢町)の寶存を密使とし渡海させ、沢根本間左馬助等と内議させる。

『上杉家御年譜』

4月16日
景勝、 沢根本間左馬助へ佐渡攻めの渡海は来る中旬に決定したと報じ、先陣の案内として富永備中守を派遣。
(度々申し届けてきた佐渡渡海の事、来月中旬に決定した。富永備中守を将とする軍勢を渡海させるからその節は忠節を尽くすよう。尚使者より口頭で詳しいことは伝えるようにする。)

『上杉家御年譜』

5月6日
先発隊として大石播磨守、奉行に長尾加賀守で、足軽500、将12名、騎兵100騎を出雲崎から船出させ、翌7日には6,000余りを出雲崎から沢根(佐渡)に上陸させる。景勝公は6月9日まで多聞寺に滞陣し軍儀評定を開く。翌10日、景勝公は軍船数百隻で軸櫓堂々と出発され、点々長蛇の如き船陣が万帆を孕ませて沢根港に着く。先発隊が占領していた沢根城に総帥旗を立てる。

『出雲崎夜話/出雲崎編年史』

6月12日
景勝・兼続、佐渡へ侵攻。 【新潟県史通史編2』
天正17年7月20日付けの景勝が佐竹次郎(義重)に宛てた書状。
「 … 去月十二 佐州へ令渡海、同十六於国中及一戦、尽討果、根本人羽茂三州一類拾余人生捕、はた物に揚、仕置如形成就候条、可御心安候、 … 」
( … 6月12日佐渡へ渡海、同月16日にことごとく討ち果し …… )

『新潟県史資料編5』

※ 天正17年6月14日付けの景勝が潟上帰本斎に宛てた書状。
「爰元着岸聞届、早々使者指越、喜悦候、 … 先以明後日羽茂押詰可寄馬之条 … 」
(…16日に羽茂を攻めるから出て来い…)

『上杉定勝古案集/上越市史別編2』

6月15日
国府川岸の攻防・南佐渡連合の国仲での拠点を攻略。
6月16日
上杉・北佐渡連合 合同軍、羽茂城を攻略。
6月
上杉軍奉行(兼続)、 制札(安全保証書)を各所に掲げる。
宿根木・国分寺・宮川 ・竹田村・金丸・目黒町。

『上越市史別編2』

「右当地に於いて、諸軍勢濫妨狼藉、並びに竹木剪採の事、堅く停止せしめ畢んぬ。若し違背の輩これあらば、立所に於いて成敗を加うべき由仰せ出し、御朱印成さる者也。仍て件の如し」

『妙宣寺文書』

6月
景勝、 八瀬が平の阿仏房に雑太城、雑太元城を払下げる。これを契機に阿仏房→蓮華王山妙宣寺に山号・寺号を変更。
※ 1326年(嘉暦2)雑太城主本間山城守の命によって八瀬が平に移り、さらに現在の地に移る。
6月25日
前田利家、 景勝の佐渡凱旋報知に対する祝辞を返報。

『新潟県史資料編3』

6月29日
直江兼続、 妙宣寺を安堵。(槍を奉納する。)
「寺内前々の如く、諸式相違有るべからず者なり。依って件の如し」

『妙宣寺文書/河崎村』

※ 兼続のプロパガンダ施策で、たぐいない卓越した戦略の片鱗がうかがえます。

兼続、 大願寺を復興(須弥壇の設置) 『大願寺住職』
7月7日
上杉残留部隊、河原田城攻略。
【上杉景勝感状 1(松本房繁 宛)】
如注進者、其元着岸以来日々敵地押詰相動之由、劬労無是非候、就中、去七日於河原田表遂一戦、敵数多討取捕、得勝利之由、喜悦、弥一功有之様、可相稼事専一、謹言、
七月十五日        景勝(花押)
松本左馬助殿

『新潟県史資料編5』/京都大学総合博物館所蔵/上越市史別編2』

【上杉景勝感状 2(栗田永寿 宛)
如注進者、其地着岸以降毎日至敵地相働之由、労身無是非候、殊以去七日於河原田表遂一戦、敵数多討取之、得勝利之趣、欣悦候、弥々一功有之様可相稼事、肝要候、謹言、
七月十五日        景勝
栗田永寿

『信濃資料第十七巻所収/上越市史別編2』

【河原田(妙経寺)に制札を掲げる】
右、於当地諸軍勢濫妨狼藉并竹木剪採事、堅令停止畢、若違犯之輩有之者、於立所加成敗之由、被成 御朱印者也、仍如件、
天正十七年七月 日      奉行中

『佐渡 妙経寺所蔵/上越市史別編2』『新潟県史資料編5』

天正17年1589年7月7日() 上杉軍、佐渡平定完了。
景勝、 代官を選抜し要地に配置する。
①雑太郡 河原田・青柳隼人(与板衆)
②雑太郡 国府・黒金尚信安芸守(上田衆)
③羽茂郡 羽茂・大井田監物(大井田一族・慶長5年より福井 松平氏に仕える)
④羽茂郡 小木・富永備中守
⑤加茂郡 沢根・椎野与市(上田衆)
⑥同所・須賀修理亮(元 勝山城主)
⑦加茂郡 湊・北村孫兵衛
⑧加茂郡 吉井・河村彦左衛門(与板衆)

『撮要年代記(佐渡叢書)』

※ 各史書(佐渡名勝志・佐渡古実略記・佐渡風土記 等)によって人員の配置場所・氏名等が異なる。

7月16日
秀吉、 景勝に祝報。
(6月24日の書状拝見、… 尚、増田長盛と石田三成に伝えておく。)
8月11日
景勝、 本間左馬助に中興の地を賞与。

『上杉定勝古案集/上越市史別編2』

※ 佐馬助は姪の夫にあたる和泉の四郎左衛門(和泉地頭 左京の次男)を率いて中奥に移り、新田を開発。のち越後に赴き沢根源四郎と称した。
※ 上杉に味方した沢根 佐馬助・潟上 帰本斎の2名は景勝の家臣となり春日山に移り姓もそれぞれ沢根氏・潟上氏に変え、以後景勝とともに会津・米沢に移っていった。現在でも米沢市には沢根姓と潟上姓があり、一族である。

『佐和田町史通史編Ⅱ』

8月11日
景勝、 佐渡在任の給分(知行)を定める。
吉井を清水内蔵助・富所伯耆守。雑太を黒金安芸守。

【別本歴代古案/越佐資稿本・国分寺文書/河崎村』

※ 佐渡の各村々(土地)は御料所(上杉直轄地)・代官給分地・寺社領分地の3つに分けられた。

『真野町史』

天正18年1590年3月14日
兼続、 長谷寺々領を安堵。 【長谷寺文書/河崎村』
文禄2年1593年3月18日
この日より、毎年砂金三駄伏見へ納めたという。 『佐渡古実略記/河崎村』
文禄3年1594年3月23日
景勝・兼続、 上洛に向け出発(翌年3月帰国) 『上杉家御年譜』
12月23日
浅野長政、 越後・佐渡の銀子の見立方を奉行に交渉するよう兼続に要請。

『長井文書/越佐資料稿本/河崎村』

文禄4年1595年1月17日
浅野長政、 石田三成に越後・佐渡の金山を掘らせてほしいと申し入れる。

『萩野由之文書/河崎村』

1月17日
秀吉、 景勝に「越後・佐渡の金山を預けるので、兼続に運上させるように」と伝える。

『宝貨事略/越佐資料稿本/河崎村』

※秀吉は「海内の金銀山は、ことごとく皆公儀の御山たるべし」と命じ、これを土地の大名に宰領させて、産出金銀を伏見へ運上せしめた。

『河崎村』

1月23日
兼続、 聚楽より飛札にて喜兵衛と志駄修理亮を金山代官に任命し、堀場の掟を設ける。
「 … 去年浅野殿奉行被申付候通、… 」
「 … 一、金山諸役、一箇月充算用相極、毎月一紙・小日記共可差出事。 … 」

『上杉家御年譜』

慶長3年1598年伏見蔵納目録に

越後 一一二四枚四両一匁四分二厘 (約 174.990kg)(55.62%)
佐渡 零七九九枚五両一匁六厘   (約 124.426kg)(39.55%)
出羽 零零九七枚八両八分五厘   (約 115.223kg)(14.84%)
と 運上金高の記載あり。
金1枚は10両・1両は4匁1分5厘(天正小判1枚の重量)

『竹越與三郎著 日本経済史3巻』

 兼続が支配する越後・佐渡・出羽庄内の各黄金山からの
合計運上金高は、2,021枚7両3匁3分3厘で
全国運上金高3,397枚8両1匁1分6厘の約6割(59.5%)に及んだ。

 

2020年第32回オリンピック競技大会・東京2020パラリンピック競技大会が日本で開催される。
第1回世阿弥の道トレイルランニング大会が佐渡で開催される。
厚木市と姉妹都市提携締結。
交流事業の一環で厚木市長が名誉佐渡守護代として佐渡に来島する
Let’s grab the dream!!  SADO-KOI