- 佐渡奉行所役人岩下惣太夫が誘う佐渡金銀山
- 1.山あい 割戸
- 2.山あい 間歩口
- 3.坑内 移動方法
- 4.坑内 役人の仕事
- 5.坑内 採掘・山留・水替
- 6.坑内 採掘・搬出
- 7. 釜ノ口 横引場 (搬出鉱石の確認)
- 8.大山祇
- 9.鍛冶小屋 (タガネの再生)
- 10.立場小屋 (選別)
- 11.四ツ留番所 (坑内管理)
- 12.四ツ留番所 (鉱石管理)
- 13.土邊小屋 (廃石の再利用)
- 14.鉱石荷分け
- 15.御番所 (関所)
- 16.町家 (居酒屋)
- 17.町家 (魚売り)
- 18.買石宅 粉成 (金場)
- 19.買石宅 粉成 (磨場・ねこ流し)
- 20.寄床屋 (灰吹床)
- 21.寄床屋 (大吹床)
- 22.金銀吹分床屋
- 23.金銀吹分床屋
- 24.小判所 (筋金惣吹)
- 25.小判所 (砕金)
- 26.小判所 (焼金)
- 27.小判所 (焼金取場)
- 28.小判所 (塩銀吹)
- 29.小判所 (塩銀吹)
- 30.小判所 (砂金吹)
- 31.小判所 (揉金・寄金)
- 32.小判所 (延金)
- 33.後藤役所 (品位鑑定)
- 34.小判所 (延金荒切)
- 35.後藤吹所 (小判の成型)
- 36.後藤吹所 (極印打ち・小判色付)
- 37.小判所 (筋金玉吹)
- 38.小判所 (筋金玉吹)
- 39.濱流
- 40.濱流 (勝場)
佐渡奉行所役人岩下惣太夫が誘う佐渡金銀山
さどぶぎょうしょやくにん いわしたそうたゆうがいざなう さどきんぎんざん
エホン。拙者の名は岩下惣太夫。国元は銀山で有名な石見と申す所じゃ。
殿様(大久保長安の命令で代官の宗岡弥右衛門 様と一緒に佐渡まで参ったでござる。拙者が石見から導入した技術で、銀も金もザックザックじゃ。山など簡単に割ってみせるわワッハッハー。
それでは拙者が作った絵巻で、佐渡の小判ができるまでを詳しく教えて進ぜよう。
忝い。お主人の申す通りじゃ。山という自然が相手、人の力など無力に等しいものじゃ。祟りや災いがないよう、お山を敬い。事故がないのを、お山に感謝する。割らせてもらう、「山神様のお力で割れる」という気持ちが大事じゃのう。心せねばならぬ。
それでは、これ絵巻をみてください。
(七十五尺)
佐渡銀山往時之稼働行繪巻物
北原藏
ところで、慶長年間って いつ頃なの? 佐渡銀山と書いてあるけど、なんで金山じゃないの?
わしは 大久保殿から数えて11人目の佐渡奉行となる伊丹康勝じゃ。
今は剃毛して順齋と名乗っておる。わしの佐渡奉行の就任期間は1635年~1653年じゃ。
さて、慶長年間とは1596年から1615年までの期間を指すが、この絵巻中に「水上輪」が描かれているしのう(㉘参照)
実は水上輪は、わしが佐渡奉行の時に導入した技術と言われているのじゃ。
それに、1723年(享保8年)に、買石宅にあった床屋が分離され、北沢町・次助町・大床屋町の3ヶ所に「寄床屋」として集約されたんじゃが、この絵巻でも「寄床屋」になっておるしのう。そうすると、この絵巻を慶長年間と言うのはむずかしいのう。
しかし、絵巻の作成にあたり大久保石見守殿のときから代々蓄積されてた振方師などの資料も参考にしたはずだし、幾度となく持ち主を変えたであろうこの絵巻を手にした人が、そのへんを汲み取り「往時」や「慶長年間」と後から書いたとしても不思議ではないのう。
それと「佐渡銀山」の名前じゃが、我々の江戸時代の初めでは、相川の鉱山のことを「銀山」と呼んでいたのじゃ。石見から来た人が多かったから、当初は金が採れるとは思っていなかったんじゃ。
聞くところによると、わしら江戸幕府の だいぶあと、鉱山を払い下げたらしくてな、「三つ葉葵」が「三菱」になったらしいんじゃ。
その後、三菱鉱業にいらっしゃった「麓三郎」というお方が1956年に 『佐渡金銀山史話』という本を出されてな。それからじゃよ「佐渡金銀山」とか「佐渡金山」とか、「金」がつく呼び方が当たり前になったんじゃ。銀より金のほうが格好もいいしな。
佐渡市・新潟県教育委員会が2013年に発行した〖佐渡金銀山絵巻が語る鉱山史〗という本に、新潟県立歴史博物館蔵の絵巻「佐渡国金銀山図(山尾信福)」が紹介されています。
同書によりますと、 『箱書きから1753(宝暦3)年に山尾衛守が制作したことがわかり、各巻末には「山尾信福」の落札がある』とあります。
この度 ご縁があり、web紹介することができました佐渡市所蔵の「佐渡銀山往時之稼働行繪巻物」ですが、山尾衛守が描いた「佐渡国金銀山図」一巻目と、似ており、まるで同じ人(山尾衛守)が描いたようにも思われます。
比較しましたら、小判所からの順に若干の違いがありました。
当初、この違いの原因は「佐渡銀山往時之稼働行繪巻物」の表装時に、貼り合わせ順序を間違えたものと思いましたが、絵巻が語る流れに誤りはなく、意図的にさえ思われます。
佐渡銀山往時之稼行繪巻物 | 佐渡国金銀山図 |
23.金銀吹分床屋 | 23.金銀吹分床屋 |
24.小判所 (筋金惣吹) | 37.小判所 (筋金玉吹) |
25.小判所 (砕金) | 24.小判所 (筋金惣吹) |
26.小判所 (焼金) | 25.小判所 (砕金) |
27.小判所 (焼金取場) | 26.小判所 (焼金) |
28.小判所 (塩銀吹) | 27.小判所 (焼金取場) |
29.小判所 (塩銀吹) | 31.小判所 (揉金・寄金) |
30.小判所 (砂金吹) | 32.小判所 (延金) |
31.小判所 (揉金・寄金) | 33.後藤役所 (品位鑑定) |
32.小判所 (延金) | 34.小判所 (延金荒切) |
33.後藤役所 (品位鑑定) | 35.後藤吹所 (小判拵) |
34.小判所 (延金荒切) | 36.後藤吹所 (小判色付) |
35.後藤吹所 (小判拵) | 28.小判所 (塩銀吹) |
36.後藤吹所 (小判色付) | 29.小判所 (塩銀吹) |
37.小判所 (筋金玉吹) | 30.小判所 (砂金吹) |
38.濱流 | 2巻 銅床屋 |
さらに、「佐渡銀山往時之稼働行繪巻物」には描かれているのに、「佐渡国金銀山図(山尾衛守画)」には描かれてない絵のパーツも一部ありました。(釜ノ口大山祇の札文字〔㉞参照〕・町家の居酒屋の暖簾の文字〔㋟参照〕)です。いずれも文字になりますが、説明文の文字ではなく、絵の一部をなすものです。
そして、この居酒屋の場面は「大森銀山図解」(石見)の絵巻にも見られ、山尾衛守が描いた構図と、人の姿や物の配置が似ています。石見の絵巻製作年は不明ですが、山尾衛守が真似たのか、真似されたのか、それとも両方描いたのか、興味をそそられます。
絵巻の内容は、右から左に
流れています。見る順は⇦←⇐⇦です。
各最初の画像は元画像データ幅6000ピクセルを幅1500ピクセルに縮小したものです。
四角いサムネイル画像は、絵巻中にある文字の確認用です。元画像データのサイズで該当箇所を切り抜き、任意の番号を赤色で割当ててあります。
下段の画像はサムネイル画像の場所を赤枠で囲んであります。
【】内の文字は、サムネイル画像内の文字を、書き下し文にしたものです。不明な文字は△ で表記しました。
尚、サムネイル画像はクリックすると拡大表示されます。
書き下し文の間違いや、誤字脱字の多さに自信があります!?
どなたか、ご教示いただければ幸いに存じます。
てる坊の間違いがひどすぎるので、私が「佐渡市教育委員会 社会教育課 佐渡学センター (佐渡博物館) 」様に文字の解読をお願いしておきました。忙しい中にもかかわらず ご快諾いただいたんですから、あなたも佐渡学センター様にお礼を言いなさいネ。
ありがとう姫さま。
佐渡学センター (佐渡博物館) 様、ありがとうございます。よろしくお願いいたします。
75尺とありますので22.72mの長さなのでしょうか?
右上の判に「石川氏蔵」とあります。絵巻は右側から左へと流れています。
1.山あい 割戸
相川金銀山のシンボル「道遊の割戸」の名前が「青柳割戸」となっています。
割れている山の右側が高く、左側が低くなっているので、大佐渡スカイライン側から西側(海側)を望む景色で、夕陽も描かれています。
※サムネイル画像をクリックすると拡大表示します。
①【青柳割戸】
②【山田間歩古口】
③【道遊間歩古口】
青柳割戸の南側下に道遊間歩があります。この間歩の呼称「道遊」が時代を経て割戸名に変わりました。
④【古間歩口】
2.山あい 間歩口
右側に描かれているのが穴(間歩口)です。※でっぱりではなく、へこみ(穴)です。
※ サムネイル画像をクリックすると拡大表示します。
⑤【「煙貫」「古間歩口」「古間歩口」】
左上が「古間歩口」右上が「煙貫」下が「古間歩口」と記されています。
(佐渡国金銀山図では、左上が煙貫、下が水貫になっています)
3.坑内 移動方法
地下深く、伸びる坑道、垂直に近い状況で掘り進んだ坑内での移動方法(右側・中側)です。左側は水替(排水作業)作業です。湧き水を制することが、錬金術の基本になります。
この絵の中に3種類の灯し(ともし)(照明)が使われています。
㈠ 釣ともし ㈡ 紙燭(ししょく) ㈢ 油皿 です。
㈠と㈡は移動用の灯し、㈢は固定用の灯しです。絵巻で見ると固定用は専用の油皿を使用しているみたいです。ちなみに石見銀山(絵巻)ではお皿の代わりにサザエの殻を使用していました。
尚、灯し油や燈芯は、奉行所からの配給でした。
我々役人も10日間に1回位ごとに、坑内の点検をしていました。
採掘が正常に進んでいるか、採掘者の不正(鏈石(鉱石)の横流しや盗難)がないか等で、坑内に入らなければなりません。
みんな この業務が好きじゃなくてネ、中は真っ暗だし、タガネを打ちつける独特の音がコダマすし、良いのは冬だけかな、通年気温が10℃くらいだから、あったかいよ。
さて、この場面を新人研修的に説明しますと、坑内が暗くて、足元も悪いし、人足(作業員)も頻繁に通るから気をつけて、ということです。
※ サムネイル画像をクリックすると拡大表示します。
⑥【穿子】
この場合は荷揚穿子のことで、金穿大工が掘った鏈石(鉱石)を運び出す係です。手に持ってるのは「釣ともし」というランプで燃料は菜種油で「御用油 」として運ばれていました〔㋤参照〕。絵の右側に「下駄楷子(げたばしご)」が描かれています。
⑦【「ハシゴ」「登ル所」】
坑内の上り下りに使われる「下駄楷子」が描かれています。穿子(作業員)が手に持っているのが「紙燭(ししょく)」と呼ばれる「たいまつ」です。
⑧【「はしご」「下ル所」「アルキ棚」】
げだばしごを降りる穿子(作業員)。慣れるとこんな降り方ができるのでしょうか?
⑨【「打替木」「下リ候所」】
打替木(うちかえき)=足場となる横木(丸木)のこと。絵巻をみると坑内に一定間隔で横木を固定しており、階段(はしご)状になっています。坑道の掘り方も、足場になる「打替木」の設置を最初から考慮し、採掘してたと思われます。
⑩【うちかへき登リ申候】
⑪【「釣瓶ニ而上へ水引上申候」「水請込舩」】
釣瓶(つるべ)を利用した水替えです。四角い木枠の水を入れる水槽を「水請込船」と記されています。
「ニ而」「水」「申候」の字って、アルファベットみたいです。「へ」が小さすぎて「、」と間違えます。
変体仮名に合略仮名、あとで出てくる「ゟ」なんて読めません。
左の字が「図」だなんて、「景」と思っていました。
オーマイガー。
しかし、わからないことは聞くのが一番。今回、佐渡学センター (佐渡博物館) 様にお願い(丸投げ状態)しました。ありがとうございます。
・
あと、web上に 『木簡庫』 があります。
奈良文化財研究所と東京大学史料編纂所が連携したシステムで、読めない1字の画像をドラッグするだけで、候補の文字が出てきます。
⑫【「水替共」
「當時之御稼ハ如斯手くり ニ致し水取上請込舩ヨリ 上ヘハ釣瓶ニ而引上ヶ申候」】
当時の排水作業は手渡しで釣瓶が使えるところまで行っていました。
照明は「油皿」を使用しています。
《鏈石(鉱石)を一日に掘れる量の めあす》
鉱脈の母岩には、安山岩・凝灰岩・頁岩などがあります。この母岩をタガネとツチで掘った場合、坑道の大きさを高さ2.4m、幅1.8mとして、一日平均堀進量は硬質の安山岩で9㎝、軟質の凝灰岩で19㎝位です。
(出典:図説佐渡金山)
そうすると、掘るサイズを家庭にある襖2枚の大きさ(1.8m×1.8m)だとすると、1日に12cm~25cm位しか掘れないんだ。
でも、1日って 何時間労働なの? まさか、この職場環境ってブラック企業じゃないよネ? 今 世間では、働き方改革とか言っているんだから‥。
坊や、働き方改革って言葉は知らないけど
しっかり、シフトを組んで、働かせているよ。逆にそうしないと、効率が悪いしね。
金穿大工の場合、2名から3名を1チームにし、大まかに6つのシフト(朝3回・暮3回)を作ってあるんだ。それそれの呼び方は、
★「朝一番」朝六ツ~四ツ時(午前6時~午前10時)
★「二番」四ツ~~八ツ時(午前10時~午後2時)
★「三番」八ツ~~暮六ツ時(午後2時~午後6時)
これを、おもに10日間のスパン(間隔)で管理してるんだ。(下図参照)
また、大工3名が交代で六ツ時(12時間)を穿るのを「六ツの稼ぎ」
大工2名で朝五ツ~暮七ツ時(午前8時~午後4時)を穿るのを「四ツの稼ぎ」と言ったんじゃ。
※ 単位の呼称として、二ツ時(4時間)のことを片番。金穿大工1名で片番(4時間)で穿れる量(出鉱量)を「肩一枚」と呼んでいました。重量にして1.5~3貫(5.6~11㎏位)の出鉱量です。
ちなみに、金穿大工の賃金は出鉱量に対する歩合制のため、1日に15貫(約56㎏)を穿る(出鉱)者(稼ぐ者)もいました。
尚、金穿大工が使う、長さ10㎝位の鑚は2肩~3肩で1本の割合で消費(使い切って再生できない)されていました。
官吏等の役人には、律令制の時代から休日「假」がありました。四ツ留番所では、2のつく日が假(休み)の日です。休み明けの3の付く日を基準に10日間ごとの採掘スパンを組んでいました。
この10日間のことを「一十ヲ日」(ひととおか)と言い、すべてがこのスパンで動いていました。
時系列で表すと、8のつく日もしくは9のつく日(上図参照)は荷売の日で奉行所が鏈石(鉱石)を買石(製錬業者)に売買する日です。入札権のある買石が各間歩の四ツ留番所まで出向き、鉱石を査定し競りをします。
2のつく日の休み後、3の日もしくは4の日が荷分けの日です。この日も鉱石の売買(追荷鏈)があり、買石が四ツ留番所まで出向きます。
買い受けた鏈石(鉱石)は製錬し、鏈石(鉱石)の対価分として「笹吹銀」を奉行所に納入していました。
尚、このシステムは慶長期のものです。システムは時代とともに推移し、 最終的に製錬も含め 奉行所での一元管理となり、1759年(宝暦9年) 奉行所敷地内に「寄勝場」として集約されました。
(買石を排除して寄勝場が奉行所の直営になったのは1782年(天明2年)です。)
4.坑内 役人の仕事
この絵巻場面は、奉行所が入札により坑道の試掘を請負わせ、その作業が計画通りに進んでいるか検査をしている様子です。この検査のことを「間切改め」(けんぎりあらため)と言い、奉行所が発注した採掘が計画通り行われているかの検査です。間切(けんぎり)とは鉱脈の様子を探るための試掘りのことです。
また、御直山の場合、採掘状況は10日間ごとに克明に記録されました。搬出された鏈石(鉱石)の量と、採掘で広がった空間との整合性があるかの検査もあったと思われます。
※ サムネイル画像をクリックすると拡大表示します。
⑭【「地山」「立合」「鏈引」「地山」「△」
「此白き所立合と申候而地山之内ニ 白石御座候此白石。金銀ニ成候 鏈石附申候白石之外ヲ地山と 申候」】
〔⑭ ~ ⑯〕までが、「間切」(けんぎり)の様子で6名+1名を描写しています。右側から1.振矩師(測量技師)・2.山師・3.振矩師・4.山方役・5.目付役・6.番所役です。一番左側の下半身だけが山留大工の人です。
山師や役人が頭につけているのが当時のヘルメット「てへん」です。
⑮【「山師」「 山方役」】
⑯【「山方役」「目付役」「御番所役」「山留 留山所見廻リ」】
⑬【「水かへ」「留山所 押へどめと 申候」】
釣瓶(つるべ)を利用した水替え。垂直に近い坑内の排水には一番効率が良い方法です。
左側に坑道の崩れ防止の装置を「留山」(とめやま)とあります。山留大工の仕事で、この図は「押へどめと申候」とあり、「押さえ留」(おさえどめ)という手法です。
⑰狭い坑内です。
⑱【留山所 かつセり留 申候】
山留大工が作った防護柵の合掌(かつセリ)という留山方法です。
⑲「紙燭」を持っています。
我々にとって一番大事な坑内での仕事は「間切改め」なんです。
でも、この間切改めって試掘や探堀だけでなく、採鉱中の定期検査も「間切改め」と呼んだんだよ。
〔⑮〕を見てください。立合(鉱脈)の感じ、うまく描かれているでしょ、ここの鏈石(鉱石)は上質だよ。
この図で一番右側から振矩師(山師専属)・山師・振矩師(奉行所お抱え)・山方役なんだけど、3番目の振矩師は、我々奉行所 配下の振矩師だからね。山師に任せていると、真っ暗だから、どこの場所へ連れていかれるかわからないからね、我々の振矩師に確認させているんだよ。あと、支柱を立てているのがわかるかな? これは、前回の間切改めで確認した跡なの。今回も確認(検査)が終わったら新しい支柱を立てて、札もつけるよ。次回来た時にわかりやすいようにネ。まぁ、この間切改めが一通りできるようになると、いっぱしの役人と言われるけどね。それと、山留大工も我々の管轄だよ、我々が通る場所は、重点的に確認させているからね。
でも、6人の中に「金児」がいないのは、どうしてかな?
5.坑内 採掘・山留・水替
右側と下側で金穿大工が採掘しています。中ほどに「十文字間切」の文字がみえます。
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⑳【「大工金銀之鏈石 穿出ス 上へほるを冠穿ト云」
「替リ大工共休居候処ヲ 矩定場ト云」
「水桶」「 根入鑚」「連々箸」「連々鑚」】
金穿大工の採掘。上側に向かって穿るのを「冠穿り」、横に向かうのが「引立穿り」と言い、金穿大工が休む場所を矩定場と言いました。根入鑚も見えます。後述の〔㉖ ㉜〕も含め、2名ないし3名を1チームとし交代で採掘していました。
採掘場では、金児に指名された「大工頭」(頭大工)が採鉱の指揮をとっていました。
場面中ほどで桶に鏈石(鉱石)を入れているのが大工頭で、入れている鏈石(鉱石)は「筋鏈」と呼ばれる3種類(筋鏈上・中鏈・下中)に選別される中の「鏈上」です。「鏈上」は区別され叺袋に詰められ〔㊴〕の箱の中まで運ばれました。
㉒【ほりこ共 から山ヲ 岡へ出ス】
穿りとった鏈石(鉱石)を集めています。右側の人が使っている道具を丁場杓子と言います。
㉓【留山所 山留共 留山普請仕所】
作っている留山は「通台」(とおしだい)という方法です。
㉕【あるき棚】
㉑【「通り棚 あるき棚共」「懸樋」「ハシゴ」】
掛樋が見えます。
㉔【十文字 間切】
試掘(間切)の跡みたいです。試掘と言われていますが、他の図面を見ても四角に掘ってあるみたいです。四隅を四角くする理由は何なのでしょうか? 試掘で不要な穴であれば、新たな採掘時にでる廃石処理として埋め戻すはずです。
試掘とは違う別の用途があったのだと思いますが、切支丹を連想させる十文字間切です。
『振矩師yの目論見』
㉖【「替リ 大工共」「大工鏈ほる 下へ穿さがるを 敷通リほりト云」「食くふ所」】
下に向かって穿るのを「敷通穿り」と言います。一人は食事をしています。
㉗【「水替の者共 樋尻へ水遣ス 是ヲかなおけがへト 申候」】
6.坑内 採掘・搬出
右側が排水作業です。水上輪が多数連なり、深い地下の湧き水を効率的に汲み上げ、最後は滑車を利用して、木製の排水溝「掛樋(かけひ)」で屋外に排出しています。上部の平らな坑道を「廊下」と呼んでいました。
左下では金穿大工が鏈石(鉱石)を採掘しています。良質な鏈が採れる「盛山」をあらわしています。
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㉘【「樋大工樋助見廻リ」「水請込舩」「水上輪樋」「樋引共」】
樋大工とは水上輪をメンテナンスする係と思われます。
水上輪は角度がキツイと揚水ができず、おおむね30度位の角度で設置しています。水上輪が登場後、坑内で水上輪が使用できるように、坑道の掘り方(角度)をなだらかに変えました。
㉙【引捨之水車ニ而 引上ル」「セイロウ留山」「水引捨テ」】
この場面の真ん中ほどの木枠が山留大工がつくる留木で「セイロウ留山」という方法です。
㉚【「打かへ木上ル所」「穿子遣イ 柄山持運候 改ル所」】
左側に座って筆を持っているのが山番衆の穿子遣で、荷揚穿子の出入りをチェックしています。
㉛【「ほりこ共」「鑚通ほりこ」】
鑚通穿子は、タガネを大工に供給する係です。
㉜【「かねほり大工共 向テほるを 引立穿ト申候」
「玄翁 」「石割鑚」「斤量」「替リ大工」「立合石」「地山」「立合石」】
横に向かって穿るのが「引立穿り」と言います。金穿大工が採掘作業をしています。
玄能・石割鏨・斤量がみえます。
斤量は重さを量る器具ですが、絵巻の構成上、この場面での必須アイテムとして描かれていると思います。その理由をこの場面から推察すると、立合石(鉱脈)の中ほどの色が黒く描かれており、金含有が豊富な鏈の「筋鏈」を描いたものと思われます。
また、着衣の2名は「てへん」を付けているようにみえます。右側の人は耳の付近に紐が確認できます。左側の人はかぶった手ぬぐいを縛り直そうとしているみたいですが、手ぬぐいの上に「てへん」があるように見えます。つまり、この2名は役人と思われます。
御直山の通常の公納鏈(荷分け)は1/2ですが、この場面での採掘間歩は「盛山」の公納鏈(荷分け)2/3のシステムを描いたものと思われます。それ故、鏈(鉱石)を量る「斤量」が描かれているのだと思います。
※「佐渡国金銀山図」(山尾信福画)には斤量は描かれていますが、玄能・石割鏨はありません。
また、着衣の人は1名しか描かれていなく、解像度が悪いため「てへん」を認識できません。(荷揚穿子が休んでいるようにみえます)
※新潟大学付属図書館HPにある「佐渡金山圖會」でも玄能・石割鏨はありませんが、斤量は描かれています。着衣の人は2名で、しぐさも〔㉜〕と同じです。「てへん」は識別できませんが、荷揚穿子であるならば、叺があるはずですが確認できません。
7. 釜ノ口 横引場 (搬出鉱石の確認)
右上に金銀山の文字が見えます。坑内(間歩)の出入り口を「釜ノ口」と呼んでいました。また、坑口がふさがらないよう四隅を頑丈に補強しているので「四ツ留」とも言います。
左側の小屋が「横引場」で坑内から運び出された鏈石(鉱石)を確認する所で〔㉚の山番衆〕と連携し鏈石(鉱石)搬出の管理(チェック)をしていました。荷揚穿子が運んできた鏈(鉱石)の重量を棒ばかり「斤量」で計測しています。
下側の3名は山留大工(てへんを装着)2名と手伝穿子1名で留木を作っています。
※ サムネイル画像をクリックすると拡大表示します。
㉝【是ヨリ金銀山 △稼之図】
㉞【敷内よりほりこ共 鏈石負出に所】
釜ノ口の上部には、大山祇(おおやまずみ)の札があります。
※「佐渡国金銀山図」(山尾信福画)に大山祇の文字は描かれていません。
㊲【「横引場」「穿子遣」「ほりこ△△より鏈石 負出貫目改△ル」】
横引場の ”穿子遣” に貫目を改められた叺袋(鉱石)は、〔㊵〕の立場小屋まで運ばれました。
㉟【留木 敷内普請△△ 材木】
㊱【「山留共」「△△入△し 材木留木ト申候 △△ニ割」】
わしは、大久保石見守様の家老、戸田藤左衛門じゃ。
これ、惣太夫。お主は、わしに鏈石(鉱石)が盗まれたことを文にしたためておるが、お主らの管理の仕方が悪いのではないか? 川上家文書とやらで後世に伝わっておるではないか。職務怠慢じゃ。
ご家老、勝兵衛でございます。惣太夫も私も異国の地の佐渡で、精いっぱい頑張っております。現在、番所の数も増やしておりますので、この絵巻をご覧くださり、ご安心してください。
8.大山祇
【大山祇】について
大山祇神社は山の神様です。慶長10年(1605年) 大久保長安が石見銀山を真似て、山之神町に建てました。
建立の意図は、支配者(役人)的に 金銀山の繁栄です。
しかし、大工や穿子(作業員)たちの現場作業者である、管理される側の論理は違いました。
日中でも暗い坑内と浸水や崩落に、おのずと自然(山)に対する畏怖がうまれました。
自然(山)は人知を超えた存在と認識し、 畏敬の念を持って山(自然)と接する。現場にとって至極当然な論理です。
山への畏敬が、大山祇への尊厳と感謝につながり、やがて「やわらぎ」などの神事に昇華していきました。
したがいまして、現場の作業者は自分が鏈石(鉱石)を穿るのではなく、大山祇にお願いして、地山を少しでも柔らかくしてもらい、安全に穿らせてもらう。
自分の力で割るのではなく、心やすく割れてもらう。
このような山(自然)に対する 想い が根底にあり、
代々「われと」(割戸)という呼称が、受けつがれてきたのだと思います。
そして、それを踏襲することが私たちの義務であり、文化なのです。
9.鍛冶小屋 (タガネの再生)
上の建物が鍛冶小屋で、下の建物が立場小屋です。
鍛冶小屋は、金穿大工が使う鑚を再生する場所です。採掘時に鑚は使用していると刃先が摩耗し鈍ると効率が悪いため、大工一人につき、一日に鑚10本位が支給されました。鑚の回収や交換は「 鑚通穿子」が専属で担当していました。また、タガネや小判を作る際の製錬に大量の炭が必要で炭の調達や鍛冶小屋の管理も、四ツ留番所がおこなっていました。
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㊳【「鍛冶小屋」
「鍛冶共 かなほり大工共 敷内ニ而鏈石 ほり候鑚ノさきを 焼申候所」】
一つの鞴(ふいご)の焼床に鍛冶屋が2名と鞴穿子が1名、計3名体制で金穿大工約10名分のタガネをまかなっており、最盛期には奉行所お抱えの鍛冶屋29名が交代の24時間体制で作業していました。
タガネに焼きを入れるため、水路を引き入れています。
㊴【「立場小屋」
「石撰女共 敷々ヨリ出る鏈石 上中ヨリ下迄見分出」】
鏈石(鉱石)は、この立場小屋で3種類(筋鏈上・中鏈・下中)に選別されます。
品質の良い「鏈上」は坑内で大工頭(頭大工)が選別・区別し、金児が確認後、後ろにある箱で保管されます。
その他の鏈石(鉱石)は画像内にザルが2つありますので、石撰女 が中鏈・下中に選別しました。
㊵【「かなこ共」「とべほり」】
座敷に座っているのが金児です。
「とべほり」という係の役割は、荷揚穿子が運んできた鏈(鉱石)を叺袋から出し、石撰女 に配り、選別してもらい、、石撰女 が分けた鉱石を再び叺袋へ詰め戻す作業をしていました。
10.立場小屋 (選別)
立場小屋は、採掘を請負った金児が建てた小屋で、絵巻中に立場小屋が3か所ほど描かれていますが、間歩内の「敷」(金穿大工)ごとに区別されていました。
石撰女 が選別する鏈石(鉱石)には金銀を含まない部分も含まれており、それを水にぬらして見分け、割り除く作業をしていました。
㊶【敷ヨリほり出ス鏈石 かなこ共方へ持来ル】
11.四ツ留番所 (坑内管理)
四ツ留番所とは、御直山の各間歩(坑内)ごとにある番所です。
『 佐渡の錬金術師たち 用語解説 の四ツ留番所を参照 』
四ツ留番所の主な業務内容は、鏈石(鉱石)の採掘に必要な物資の供給と管理です。
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㊷【「山留改」「留木蔵」】
山留大工が使う留木を管理しています。
㊺【「炭蔵」「炭負 鍛冶改へ炭渡」「鍛冶改炭 請取」「御番所役」「役人敷内へ下リ候而 出申身洗ふ 水風呂」】
鍛冶屋が使う炭を管理しています。左に風呂があり、水風呂の文字がみえますが、絵には、焚口から火が見えます。隣の炭を燃料として加温しているのでしょうか?夏は水でも、冬はかなり厳しいと思います。坑内から出てきた役人が使う風呂です。
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㊸【「とべほり」「買石」「買石目利尻候ヲ 本荷鏈ト申 是ニ荷印付」】
買石(製錬業者)の人の指示で荷売用鏈石(鉱石)を入れる叺袋に等級別の印(文字)を書いています。
㊹【「かなこ共」「鏈石」「買石共召連候ねこのこ共 鏈石ヲ買石へ見せる処」】
この場面は、鏈石(鉱石)の質を買石に見てもらうため、金児の指示で、歩溜筵(むしろ)の上に鏈石(鉱石)を広げるところです。
立場小屋で選別された鏈石(鉱石)は、〔㊻〕下にある2つの棚に保管されます。錠前が描かれています。左側の棚に「上鏈」と書かれているので、〔㊴〕で石撰女 が分けた鏈石(鉱石)は上中下の3種類で「上」の鏈石(鉱石)だけは鍵付きの棚で保管されたのでしょうか。
㊻【「穿子遣り共ほりこ柄山 持かます寸尺改ル所」
「かせ板」「ほりこ共 紙燭改請所」「上鏈カ箱立」】
荷揚穿子用の鏈石(鉱石)を入れて運ぶ叺のサイズを「加勢板」で検査をしています。
12.四ツ留番所 (鉱石管理)
鉱石を買付け、製錬する「買石」の人々は、四ツ留番所の外側(図左)で鉱石の査定や競りをおこなっていました。坑内(間歩)への出入りは 四ツ留番所で厳重にチェックしていました。
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㊼【「帳付」「帳付場」「山師」】
事務職の役人がいる場所です。この場面では、「大工入帳」と「留木渡帳」がみえます。また、火鉢に火が見えますので、寒い時期をイメージしているみたいです。
㊾【「御番役」「帳付」「大工入札箱」「大工」】
金穿大工の出入坑を管理しています。坑内(間歩)内にはいるには、鑑札が必要でした。鑑札を入れる入札箱が見えます。この場面では、帳付(事務担当役人)が金穿大工の氏名や住所等を「大工入帳」に書き記して、鑑札を渡しているところです。この時点で金穿大工のシフトも決めてたと思われます。
㊿【「山方役」「目付役」】
番所の管理者がいる場所です。
㊽【「山師」「油番 油渡ス」「山留」】
通路に棒が置かれているのは、着衣の中に鏈石(鉱石)を隠し持っていないかチェックする「股木」です。またぎ方が不自然な場合、ボディーチェックがありました。山方役や目付役が見通せる位置に設置してあります。
画面下は、油番(役人)が山留大工の持つ油筒に油を補給しています。※ 山留大工も「てへん」をつけいています。
㋐【「油番所」「油番」「かなこ」】
油番所では、照明用の油とタガネの管理をおこなっていました。
この場面では、油番が金児に新品のタガネを渡しているところです。
㋑【「穿子請 ほりこ改入ル」「穿子共名改請ル所」】
荷揚穿子の入坑を管理しています。坑内に入る場合、鑑札が必要でした。
㋒【「荷売之図 鏈石洗場」「買石共鏈石ノ 上中下ヲ目利 いたし直段極 所」】
「洗場」とは、買石達が鏈石(鉱石)の査定と競り(競争売買)をする場所です。
四ツ留番所の脇に設置されていて、8のつく日(鳥越間歩は9の日)が鏈石(鉱石)の売買(競り)の日でした。「上 中 下」の文字が見えますので3種類に鑑定し、各「敷」(金穿大工)ごとに、「い・ろ・は」の鏈石(鉱石)に区別されました。
したがいまして、同じ「い」の叺袋であっても、各「敷」(金穿大工)により入札価格が異なりました。
㋓【「ねこノこ」「鏈石はたき 買石共へ見せる所」】
鏈石(鉱石)の品質検査です。任意の叺から鏈石(鉱石)をとりだし「鉄皿(図左下)」の中に入れ「カキ槌(図右上)」で細かく砕いて水を入れます。次に鉄皿の上に「鉄皿輪(図左上)」をかぶせ、更に「掛しゃくし(図右上)」をのせ、ひっくり返して水を捨てます。
軽い石質の砂は流れ落ち、重い「水筋(自然金)」や「汰物(輝銀鉱砂)」の砂泥は、流れ落ちず「掛しゃくし」の上に残ります。比重選鉱法です。
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13.土邊小屋 (廃石の再利用)
石撰女 は、立場小屋で捨てられた廃石を貰えました。貰った廃石は、ひとまず河原に置かれ、藁ぶき屋根を乗せただけの小屋を建て、水路を引き込み、さらに割り砕き、鏈石(鉱石)を探し集めて買石に転売していました。
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㋔【「土邊小屋」「石えり女 とも」】
㋕【「とべほり」「とべ 小屋」「石えり女共」】
〔㊵〕の立場小屋で貰った廃石は、水路を引いた画面奥側に置き、それを「とべほり」が小屋の石撰女 に配り、更に割り砕き、鏈石(鉱石)を集めています。割り砕かれた捨て石は、画面水路手前に置かれました。
14.鉱石荷分け
この場面は「荷分け(公納鏈)」を描いています。「荷分け」(公納)の比率は、各時代で異なり
①田辺奉行の時代は(1613~1617/慶長18~元和3年) 1/2 (50%)
➁鎮目奉行の時代は(1618~1627/元和 3~寛永4年) 1/4 (25%)です。
(田中圭一『佐渡金山史』中村書店1976年)
絵巻には「い・ろ・は」が各4列(12袋)描かれていますので、
①の田辺時代は「い・ろ・は」・「い・ろ・は」の2列(6袋)が奉行所の取り分(公納鏈)で、
➁の鎮目時代が「い・ろ・は」の1列(3袋)が奉行所の取り分(公納鏈)となるのを説明しています。
なお、山師が、くじ(籤・鬮)を引く様子が描かれていますので、自分ら分(山師、金児、大工)と奉行所分の列取りを公平を期するため、くじを引き 決めていたと思われます。
この「い・ろ・は」の区別は、 〔㊴〕の立場小屋で3種類(筋鏈上・中鏈・下中)に選別されたもので、「い」が筋鏈上、「ろ」が中鏈、「は」が下中の鏈石(鉱石)です。
鏈石(鉱石)は、各「敷」(金穿大工)ごとに分けられており、その方法は、叺袋「い・ろ・は」の裏側に、敷分け記号(敷紋)を記入されています。
(※例 長吉の敷鏈は 山形ニ二ノ字、長助の敷鏈は 角ニ一文字 など)
絵巻中には「〇」「▽」「∴」「⊖」「⊕」「二つ違い山形」の6つの敷紋が確認できます。
ついでながら、田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』刀水書房,1986年 の582ページから 、付属史料として舟崎文庫の『ひとりあるき』が収録されています。
同書の説明によりますと、
『ひとりあるき』は上・中・下の三巻から成る。上は金銀山稼方で、天保年間(1830-1843)の相川金銀山立会名、稼方諸入用品、鏈撰方、鉱石の名称、仕分け勘定、相川の山師、銀山間歩、一ヵ年入用を記録する。中は本途粉成吹の取扱いと小判所の取扱いを以ってなる。また下は金銀吹分け所の取扱い、穿鏧掛取扱い、西三川金山取扱いを以って構成され、幕末期の佐渡金銀山の実体を知る上で必須の資料である。
とあります。作者は不明みたいです。「ひとりあるき」というタイトルが、独特です。
【舟崎文庫】とは、佐渡相川出身の元帝国大学教授萩野由之氏収集にかかる佐渡関係古文書を、佐渡出身の実業家舟崎由之氏が1947(昭和22)年遺族萩野端氏から購入し、新潟県立佐渡中学校(現在の佐渡高等学校)に寄贈したものです。
舟崎文庫の『ひとりあるき』に関連し、
三枝博音『日本科学古典全書 第10巻』朝日新聞社,1942年 の書籍中に、漢字ですが「独歩行」があり、独歩行と読むのだと思います。
・黒澤元重『鑛山至実要録』元禄四年
・下原重仲『鐵山必要記事(鐵山秘書)』天明四年
・作者不詳『独歩行』文化~文政時代
・坂本俊奘『大砲鋳造法』元文四年
・佐久間貞介『反射炉日録抄出』安政元年
この『独歩行』の内容は
一 水筋取揚方
馬の尾の粉元汰、并ざくの粉こま宵突銀溜置候分、一口限り板に而汰直し候得は、板の手前え寄候もの金氣に付、能々汰詰鐵氣を去候ため磁石を以掻廻し、取揚器物に移し元筋と唱申候。惣而磨引候度に中突銀取揚候節も、是又汰直し筋取揚候儀右同様に御座候。是を磨筋と唱へ元筋と打込申候。汰物之内、元汰中突銀とも荒き方を手引磨之石磨に而挽返し、細かになし筋取揚候儀も御座候。水筋と唱候儀は追て取揚候筋、吹立迄其儘差置候而は錆出候に付、器物に水を入浸し置候故申習わし候儀に御座候。
など、金銀の製錬に関することも記されていて、舟崎文庫の『ひとりあるき』と似ております。
ウィキペディアによりますと
【三枝博音】さいぐさ ひろと 1892年(明治25年)5月20日 – 1963年(昭和38年)11月9日
1922年(大正11年)東京帝国大学文学部哲学科卒業
【萩野由之】はぎの よしゆき 1860年6月6日(万延元年4月17日) – 1924年(大正13年)1月31日
相川下戸炭屋町出身 歴史学者・国文学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。
1923年(大正12年)3月、東京帝国大学教授、東京高等師範学校教授を定年退官。
とあります。萩野先生と三枝先生とは、東京帝国大学で教授と学生での接点があり、荻野先生が収集していた『ひとりあるき』を東京帝国大学生だった三枝先生が知り得る環境にあったものと思われます。
※『独歩行』の内容引用は「治金の曙」によるものです。
鏈代銀仕分ケ勘定
一、鏈代高何程有之候共、拾一ニ割、三ツ弐歩ハ上納、壱歩は掃溜、四ツ三歩はかなこ前、九歩は山師領前、弐ツ六歩は買石御手当として被下候割合ニ御座候鏈代わり合方当時も本文之通ニ御座候、尤右之分別段、御蔵、受取御段は無之、本途金銀御買上代御蔵請取之内を以、書面割合之分支払いたし、残銭買石江相渡候儀ニ御座候、但当時は御直粉成ニ付、買石御手当之分、粉成吹御入用ニ相成申候
とあります。この舟崎文庫『ひとりあるき』が語る、荷分けの方法は
鉱石を11等分し、「上納 3.2/11」「掃溜 0.1/11」「かなこ前 4.3/11」「山師領前 0.9/11」「買石御手当 2.6/11」の5つに分けるみたいですが、合計しますと 11.1/11 になり、計算が合いません。
比率に直しますと 「上納 29%」「掃溜 1%」「かなこ前 39%」「山師領前 8%」「買石御手当 23%」になります。
掃溜(はきだめ)とは何を指すのでしょうか。
表記中、”上納” には “御” をつけず、買石に ”御手当” とありますので、奉行所(幕府)よりも、買石を重視している人(買石関係者)が記したものなのでしょうか。
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㋖【「荷之番小屋」「御上納鏈 荷置場」】
㋗【「目付役」「荷分之所」「大工共」「山方役」「鏈石」「鬮出所」「山師」「御番所役」「かなこ」】
㋘【荷分済鏈石 買石方へ下ル】
荷分けされた鏈石(鉱石)は、買石の宅まで運ばれます。
15.御番所 (関所)
鉱山へ入るときに最初に通る番所で、「間山御番所」と「六十枚御番所」の二つがありました。関所みたいになっており、どちらかの番所を通らないと鉱山へ行けない仕組みになっていました。
この番所(関所)からのエリア内には、牛馬をいれることが禁止されており、四ツ留番所からの鏈石(鉱石)の搬出などは人力でおこなっていました。大八車等の荷車もありましたが、山の坂道のため不向きでした。
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㋙【間山御番所 六拾枚御番所 之内】
㋚【「鏈数改請負出ル所」「番所役」】
この図の意図することは「番所役は 運びだす鏈石(鉱石)の数を確認しなさい」と言うことです。
女性が叺袋を2つ背負っています。袋1つが5貫ですから約38㎏を背負ってます。右手持っている棒は「荷杖」と言い、小休止するときに荷の重量を分散させるものです。
㋛【御番所之外ヨリ鏈石ヲ 牛ニ付買石方へ下ケ 申候】
㋜牛に運ばせるところです。
㋝鏈石(鉱石)は牛に5袋、人間が2袋です。
牛の背の叺袋の文字は「の」と、人が背負っているのは記号の「⊕」に見えます。また、〔㋘〕の人が背負っているのは「▽」に見えます。
「⊕」「▽」の記号は、敷(金穿大工)別の敷紋ですが、「の」に見える字はどう理解すれば良いのでしょうか?
「の」に見える叺袋の字は「ひらがな」なのでしょうか?
他の絵巻も参考にしますと
新潟県立歴史博物館の「佐渡国金銀山図」では、勝場入口の牛の横に「の」・金場に「よ・ち」の文字が見え、
新潟大学附属図書館「佐渡金山圖會」では「の・た」が見えます。
これら「の・た・よ・ち」の文字を、「ひらがな」と仮定しますと、鏈石(鉱石)の「上・中・下中」を表すのは「い・ろ・は」3文字の1種類ではなく、「ひらがな」だけで16種類(16パターン)の「上・中・下中」があることになります。
上 | 中 | 下 | |
A | い | ろ | は |
B | に | ほ | へ |
C | と | ち | り |
D | ぬ | る | を |
E | わ | か | よ |
F | た | れ | そ |
G | つ | ね | な |
H | ら | む | う |
I | ゐ | の | お |
J | く | や | ま |
K | け | ふ | こ |
L | え | て | あ |
M | さ | き | ゆ |
N | め | み | し |
O | ゑ | ひ | も |
P | せ | す | ん |
それでは、この「ひらがな」の意味を史料と”こじつけ”てみますと
川上家文書に1613年(慶長18年) 2月の初10日間の採掘量があります。
・鏈159荷・向山江戸庄右衛門間歩(山主 江戸庄右衛門)
・鏈541荷・向山弥次兵衛間歩(山主 味方但馬・佐ノ庄右衛門)
・鏈135荷・向山但馬横相(山主 味方但馬)
・鏈180荷・向山鳥越源左衛門間歩(山主 矢田太兵衛)
向山の地図を見ますと「弥次兵衛割戸」を挟んで東側に「向山弥次兵衛間歩」、西側に「向山但馬横相」があり、この二つの間歩は直線距離にして100m未満です。
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(相川郷土博物館『佐渡の金銀山 開館四十周年記念特別展報告書2』より抜粋)
上記地図で「向山江戸庄右衛門間歩」の場所は確認できませんが、
「向山弥次兵衛間歩」と「向山但馬横相」の両方に四ツ留番所があったのではなく、一つの四ツ留番所で「弥次兵衛割戸」周辺エリアをカバーしていた可能性があります。
その場合、鏈石(鉱石)の「上・中・下中」の区別は、
「向山江戸庄右衛門間歩」では「い・ろ・は」
「向山弥次兵衛間歩」では「ゐ・の・お」 で識別・区別したほうが理にかないます。
大久保長安の施策である「御直山の水抜き工事」により、隣接する間歩が御直山になる事象が多かったはずです。絵巻最初の「青柳割戸」においても左側に「道遊間歩古口」、右側に「山田間歩古口」が描かれています。〔⑤〕においても「古間歩口」二つが隣接しています。
こういった事情から、奉行所お抱えの絵師は、絵巻中に「の」の文字の叺袋を意図的に描いたのだと思います。
向山弥次兵衛間歩だけで10日間に541荷が採掘されています。石撰女 が「敷」ごとに「上・中・下中」の3種類に分類した541荷を、山買石は更に1荷づつ確認し「い・ろ・は」の3種類に分け直して封をし、値段をつけたのでしょうか。それとも、10荷位から任意の1荷を抽出して分類したのでしょうか。
入札方法は、”いろは” 込みの「敷ごと」なのか、「敷別・等級別」で行われたのかは不勉強のため不明です。
- 毎8のつく日に、入札権をもつ山買石たちが四ツ留番所脇にある「洗場」まで出向きます。〔㋒〕
- 各 金児は、各 「敷」(金穿大工)ごとに石撰女 に分別された鏈石(鉱石)を歩溜筵に広げ、山買石たちが連れてきた「祢古ノ子」に見てもらいます。〔㊹〕
- 山買石たちは、鏈石(鉱石)を水に濡らして確認したり、「祢古ノ子」に砕かせた鏈石(鉱石)の品位を確認し、各 敷ごと「上(い)・中(ろ)・下中(は)」の等級を決めます。〔㋓ ㋒〕
- 役人立ち合いのもと、入札価格により落札者(山買石)が決定されます。〔㋒ ㋗〕
- 山買石の指示で、荷売用鏈石(鉱石)を入れる叺袋に等級別の文字(い・ろ・は)と裏側に敷紋を書き、袋詰めします。〔㊸〕
- 敷別、等級別に分けられた鏈石(鉱石)の内、「い」(上鏈石)は四ツ留番所内にある〔㊻〕の「上鏈箱立」に保管され、それ以外の「ろ・は」の鏈石(鉱石)は、屋外の御上納鏈荷置場に置かれました。〔㋖〕
- 役人立ち合いのもと、鏈石(鉱石)を搬出します。(10のつく日)〔㋗ ㋘ ㋚ ㋜ ㋝〕
16.町家 (居酒屋)
街並みを描いていますが、石見銀山の絵巻も含め、同じ構図です。
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㋞お酒と串に刺した何か(肴)を持っています。
また、下図は『大森銀山図解』(石見銀山)の町家の場面ですが、〔㋞〕と〔㋟〕の人の仕草がそっくりです。佐渡か石見か、どちらかが真似ていると思われます。
㋟居酒屋と思われます。暖簾には【上諸白肴色々】と記されています。諸白とは現在の日本酒(清酒)です。尚、新潟県立歴史博物館蔵の絵巻『佐渡国金銀山図(山尾信福画)』の暖簾には、「上諸白」の3文字しか描かれていません。
㋠【「紙△屋」「はたく」】
紙燭の先端をつくる紙燭屋ですが、文字は「燭」ではなく「好」にみえます。
㋡※ 暖簾の文字「た△」「笊」「鎚柄」「荷紙臺」
奥にあるのが筵か叺で、手前が籠かザルです。左横の木の棒は鎚柄です。
㋢子供が2名描かれています。白猫が2匹描かれていますが、新潟県立歴史博物館蔵の絵巻『佐渡国金銀山図(山尾信福画)』では犬に見え、右側の犬は黒っぽいです。
㋣【銀山へ御用炭上ル】
炭を背負っています。四ツ留番所に納品に行くのでしょうか。
(金銀山ではなく、 銀山とあります)
17.町家 (魚売り)
四ツ留番所まで運ばれる、油や留木が描かれています。
前出の〔㉝〕では「是より金銀山」とありましたが、この場面では「銀山へ御用 ~」とあり、絵巻作製当時は、まだ「銀山」の呼称が主流だったのでしょうか。
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㋥【銀山へ御用留木上ル】
(金銀山ではなく 銀山です)
㋦魚売りですが、鯛でしょうか? 模様からすると、タカナバチメ(沖メバル)ぽっいです。
18.買石宅 粉成 (金場)
「粉成」とは、鉱石を打ち砕き、すりつぶして、水の中で比重選鉱を行い、「水筋(自然金)」や「汰物(輝銀鉱砂)」を採取するまでの一連の作業のことを指します。
慶長・元和の頃に600軒を数えた「買石」と呼ばれた製錬業者は、鏈石(鉱石)を山師や幕府から入札により購入し、幕府に製品(金銀)を納入(販売)していました。
しかし、「金児」との癒着や談合による不当な廉買いや、製品(金銀)の密売などがあり、3回に及ぶ改革(取り締まり)がありました。
①1645年(正保2年)
大床屋6軒・吹分床8軒・小床屋54軒、56人を選定し、床屋を申し付けました。
(この時期はまだ、買石宅に床屋があり、製錬をおこなっていました)
➁1723年(享保8年)
北沢町・次助町・大床屋町の3ヶ所に「寄床屋」として集約され、奉行所の管理下に置かれました。これにより、買石宅にあった床屋は分離されました。
(この絵巻では、買石宅は「粉成」だけになっているため、1723年以降の状況をあらわしていることになります)
③1759年(宝暦9年)
相川の市中に散在していた買石宅の「粉成場(勝場)」は佐渡奉行所敷地内に集められ、「寄勝場」となりました。
(買石を排除して寄勝場が奉行所の直営になったのは1782年(天明2年)です。)
「金場」とは、「粉成」の最初の工程で、鏈石(鉱石)を砕き、細かくする場所です。
土台は石を築き、粘土を塗り作られ、傾斜をつけた土台の上に金場石(カナバ石)を設置してあります。画面の金場石は色が黒っぽいので、硬い玄武岩が使われています。金場石は中を少しくぼめてあり、この上に鉱石を乗せ、細かく粉砕します。なるべく砂に近い状態まで粉砕しますので、鉱石の落下防止のため「クツ輪縄」を取り付けてあります。
鏈石(鉱石)を砕く作業をする人を「石△」と言います。
作業をする人を「石扣」といいます。重さ12~15㎏の「かな場鎚」と言うハンマーで鉱石を打ち砕きます。3種類の打ち砕き方があり、「粉成」方が違いました。
1.【馬尾粉成】
網目が一番細かい「馬ノ尾の篩」に通せるよう、粉末状まで細かくするもの。
2,【さく粉成】(ざく粉成)
「ザクザル(篩)」に通せるサイズまで砕くもの。
3.【並さく粉成】(並ざく粉成)
「ザクザル(篩)」の網目を二目づつ抜き、網目を大きくしたザル(篩)に通せるサイズの大きさに砕くもの。
絵巻では「馬尾粉成」と「ザク粉成」(さく粉成)の2種類のみです。
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㋧【買石ノ家 稼場粉成之図】
㋨叺の文字が「い」と「二つ違い山形」です。
㋩【入口】
買いとった鏈石(鉱石)を運んでいます。
㋪【「カナバ石」「かな場」「鏈石」「鏈石」「クツ輪縄」
「鏈」「石△共」「ザクザル」「ザク桶」
「上鏈捨△ヨリ以上ノ鏈馬ノ尾 フルイニ而ふるう所」
19.買石宅 粉成 (磨場・ねこ流し)
「磨場」とは、「金場」で細砕された鉱石を石臼で挽き、さらに細かくする場所です。
石臼を扱う人を「根取」、石臼を回転させる人(動力源)のことを「磨挽」と呼んでいました。
石臼1台の作業員は4~5名で、石臼1台の作業能力は1日で叺袋の鏈石(鉱石)を約6袋半を処理できました。絵巻では石臼が2台あり、「金場」に4名、「上鏈」もありますので、一日の鏈石(鉱石)の処理能力は約14~15袋になります。
石臼は、鉱分の砂泥を回収しやすいよう「磨舩」の中に設置されています。「根取」が作業する上にも板を敷き、こぼれた鉱石砂泥が「磨舩」の中に入るような仕組みになっていました。
鏈石(鉱石)の種類によって、「金場」や「磨場」での作業の仕方が異なりました。
《「い」の叺袋の場合》
1.筋鏈上が入った「い」の叺袋の場合は、念入りに細かく粉砕します。砂から粉状(馬尾粉成)にし、馬の尾の篩に通します〔㋪〕。
2.馬の尾の篩に通された粉は「磨場」の〔㋮ 〕の「板取」と呼ばれる職人に渡されます。〔㋮ 〕の「板取」は、鉱石の粉を、水の入った「立おけ」に入れ「鉄杓子」でかき回し、桶の外側を何度も叩き、鉱質分を沈殿させます。「板取」は「立おけ」に手を入れ、沈殿状況を見極め「立おけ」の中の濁り水を別の桶に移します。この移した水を「馬ノ尾ノ古満」と言います。
3.「板取」は「立おけ」の中の鉱砂を「汰板」(揺り板)を使い水中で揺らし、「水筋(自然金)」を取り上げます。この作業を「馬尾ノ元汰」といいます。
4.「馬尾ノ元汰」から落ちた砂を、磨き(石臼)にかけます。(1番から3番まで、3回挽き通します)
5.石臼で挽いた砂泥を、水の入った「立おけ」に入れ、かき回し、濁り水を上舩に入れます。この濁り水を「馬ノ尾先摺物」といいます。
6.「立おけ」の中の鉱砂は、〔㋱〕の「板取」が「汰板」(揺り板)で、鉱物(汰物)を取り上げます。取り上げたものを「中突の銀」と言います。
7.別桶に移してある「馬ノ尾ノ古満」を板にかけ、汰物を取り上げ、落とした砂は「祢古流し板」にかけます。
(祢古流しの後、再び「汰板」にかけ、汰物を取り上げます。これを「一番板先」と言い、「三番板先」まで繰り返します。)
《「ろ・は」の叺袋の場合》
1.中鏈以下の鉱石の場合、「い」の叺袋に比べれば比較的大雑把に砕かれていました。(さく粉成) 砕かれた鉱石は「ザクザル」に通します〔㋪〕。
2.「ザク桶(篩)」に通された粉は「磨場」の〔㋬ 〕の「根取」に渡されます。
「根取」は、鉱石の粉を、水の入った「立おけ」に入れ、かき回し、濁り水は〔㋯〕の上舩に入れ、中の砂は、石臼で1番から3番まで、3回挽き通します。
(1番磨きは、鉱砂が粗いため軽く挽きます。2番3番磨きは、砂泥状に細かくするため、重く挽きます。)
3.石臼で都合3回ほど磨き(挽き)ますが、その都度、水の入った「立おけ」に入れ、かき回し、濁り水を別の桶に移します。この移した水を「摺物」といます。
4.「立おけ」に残る砂は、〔㋱〕の「板取」に回され板にかけ、鉱物を取り上げます。取り上げたものを「中突の銀」と言います。
5.上舩の水は一晩沈殿させ、翌朝上水を捨て、底に残る砂泥分を「祢古流し板」にかけます。(祢古流しの後、再び「汰板」にかけ、汰物を取り上げます。これを「一番板先」と言い、「三番板先」まで繰り返しおこない、鉱分を逃さず取り上げました。)
「い」の叺袋の「金場」での処理能力は粉状に砕くため、1名で1日2袋が限度でした。
【汰】の字は、「よなげる」(水中でゆすって必要なものをより分ける)とも読み、揺すって淘汰(比重選鉱)することから、(揺り)が「汰」になりました。
道具の板を「汰板」、板を揺すって取り上げるものを「汰物」、最初に取り上げるものを「元汰」と言います。(絵巻での「汰物」とは、硫化銀を主とする鉱砂(輝銀鉱砂)のことです)
【水筋】とは自然金のことです。「水筋」は、表面が錆びやすく、水中で保存すれば変色しないので「水筋」の名がつけられました。
【金場・磨場・祢古場】について
佐渡市相川広間町1-1の「史跡 佐渡奉行所跡」では、2000年に「御役所」部分を復元、2004年から「寄勝場」を公開しています。2次元(2D)な絵巻内の「粉成場(勝場)」(金場・磨場・祢古場)が、そっくり3次元(3D)に再現されおり必見です。
「祢古場」は傾斜角度約6.6度の斜面(長さ6尺につき7寸勾配)を土で作り、その上に長さ3.6m×幅21cm位の木枠の溝(祢古流し板)を埋込、木綿布(ねこだ)を敷いて、〔㋯〕の「上舩」に沈殿した「摺物」を水とともに流し〔㋲ ㋵〕、「水筋分」と「汰物分」を付着させます。これを「祢古流し」といいます。
「摺物」を3回流した(祢古流し)あと、木綿布(ねこだ)をはがし〔㋳〕、打込桶の中で金銀分を洗い落とし〔㋴〕、再び「板取」が板にかけ「水筋」と「汰物」を回収します。
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㋫【磨挽共】
「磨挽」とは、石臼を回転させる係のことで、足元にあるのは滑り止めの筵です。
㋬【「磨場」「根取」「上磨」「下磨」「砂桶」「水おけ」「立おけ」】
石臼の上部石を上磨、下部石を下磨と言います。
㋭【「車△」「根取」】
石臼で作業する人を「根取」と呼んでいました。
㋮【「板取」「板△おけ」】
板取とは、砂泥となった鏈石(鉱石)を「汰板」を使い水中で揺らし、比重の違いにより「汰板」に残る「水筋(自然金)」や「汰物(輝銀鉱砂)」を取り上げる職人のことです。
㋯【「上舩」「持桶」「上舩」「下舩」】
「上舩」の中で1晩寝かせ鉱石分を完全に沈殿させ、上澄みの水は「下舩」に移され、沈殿された砂泥を「祢古流し」で使います。
㋰【立おけ】
㋱【「中突板取」「小板△桶」】
石臼で磨いた砂や「祢古」に流し終えた「摺物」(濁り水)を水中で揺らして、板に残る物を桶に入れます。これを「小板揚げ」と言います。
画像左側の桶は「小板鉢」と言う桶で「汰物(輝銀鉱砂)」を入れます。
画像右側の桶は「水筋鉢」と言い「水筋(自然金)」を入れる桶です。
板取(職人)の匠の技は、「汰板」の揺すり方にあります。
砂は板から落とし、「汰物(輝銀鉱砂)」は板の中ほどに集め、「水筋(自然金)」は板の前に寄せ、板の中で分離させます。
これを「筋もみ」と言います。なお、「水筋分」には鉄分(砂鉄)も含まれているため、磁石を使い取り除きます。
「水筋鉢」の「水筋(自然金)」には、銀分も含まれるため、再度 板にかけ「水筋分」と「汰物分」に分けます。ここで分けられた「汰物」は少々筋気(金)があるので「元汰物」と言い、銀に吹き立てました。
㋲【「ねこ木綿」「ねこ場」
「前だれ」「口木綿」「ねこ蔵」「ねこ笊」「頭舩」】
丸く見えるのが「まえだれ」で直径約46cm×高さ約75cmの「前垂桶」が入るようにくり抜いてあります。「前垂桶」は、「上舩」で沈殿された「摺物」を入れる桶です。
「祢古笊」は21cm四方の四角いザルで、この上から「摺物」を流します。
「口木綿」とは、長い木綿布の最初の先端部のことを指します。尚、最後の部分を「尻木綿」と言いました。
㋳【「ねこ木綿」「尻木綿」
「えんぶり」「尻打おけ」「尻舩」】
「えんぶり」とはレーキのことで、
㋴【打込おけ】
㋵【「頭舩」「まへだれ」】
20.寄床屋 (灰吹床)
寄床屋とは、買石の家にあった床屋(製錬施設)を分離して、1723年(享保8年)に北沢町・次助町・大床屋町の3ヶ所に集約され、奉行所の管理下に置かれた施設です。
金や銀を精錬する「吹く」作業は、単に「水筋(自然金)」や「汰物(輝銀鉱砂)」を熱し、銀や金を熔かし出すのではなく
最初に「大吹床」で、鉛と一緒に加熱し、金(銀)との鉛合金を作ります。ここで出来上がる鉛合金のことを「下り地」と言いました。
次に「灰吹床」で鉛合金を灰の上で加熱しますと、融点の低い鉛が先に溶け灰に染み込みます。
この分離させ灰の上に残るものを、金の場合は「面筋金」、銀の場合は「山吹銀」と呼んでいました。
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㋻【寄床屋之図】
㋼【「三ヶ所共 灰吹床」「買石共」】
左が吹差鞴という「ふいご」で、炉に空気を送り込む装置です。
㋽【寄床屋番役人】
㋾【「金銀改役人」「買石」】
Ⓐ【掟 此内へ 御用 無之者 堅間敷候 月日】
(額内の文字です)
21.寄床屋 (大吹床)
【寄床屋】
入口には、関係者以外立ち入り禁止みたいな看板があります。
買石が持ち込んだ「水筋(自然金)」や「汰物(輝銀鉱砂)」の重さを寄床屋番役人〔㋓〕が計測し記帳します。
ここで吹き上げてできる筋金や山吹銀も最後に計量・記帳され、書付(切手)とともに買石に渡されます。
【大吹床】
炭を細かに打ち砕き笊に通したものを須灰と言います。大吹床の炉は、須灰と粘土を混ぜ固めて作ります。燃料は炭を使いました。
吹く(製錬作業)ときは、床屋番役人が必ず立ち会い(監視)ます。
《水筋(自然金)》
1.鉛を良く溶かし「湯」にします。
2.炉に炭を入れ、その上に紙袋で包んだ水筋を乗せ、しばらく蒸し置きます。
3.自然と焼き固まるので鞴を差し(吹差鞴を操作し)、水筋を熔かし、鉛の「湯」と一緒にします。
4.良く熔けたら火を除け、藁箒で水をかけると柄実(不純物)が浮き出ます。
(柄実は取り除き、貯め置いて、絞返して薄筋金を取揚げます)
5.跡に残る「湯」を冷し、取揚げ、灰吹床で吹立ます。
《汰物(輝銀鉱砂)》
鳥越間歩や中尾間歩の鏈石(鉱石)は「汰物(輝銀鉱砂)」が多い生汰物で、吹くのに手間がかかるので焼立てていました。
(硫化鉱物の多い汰物の場合は七輪篭で蒸し焼きし、硫黄分を除去していました)
1.前回使って取って置いた「炉滓」と粉砕した「柄実(不純物)」を混ぜて吹き熔かし、良く熔けたら火を除き水を打ち、浮き上がる柄実(不純物)を取り、その後に「鉛」と「鉄」を入れて吹きます。
(最初から鉛を入れて吹くのではなく、前回使ったカスと不純物を利用していました。)
(炉滓1貫目は、鉛670匁分と同等として、使用していました。)
(鉄を入れるのは炉滓と柄実(不純物)を勢いよく吹くためです。)
2.取除いた柄実(不純物)は、細かく砕き火の上へ乗せ、吹き熔かします。
(これまでの作業を「地吹」と言います。)
3.「地吹」の上に「汰物」を乗せ、吹きます。鞴を静かに差すと良く熔け「地吹」と「汰物」が交じり一緒になります。
4.火を除き水を打ち、柄実(不純物)を取り、又火をかけ、取り除いた柄実(不純物)を打ち砕き、火に戻します。
5.汰物が良く溶けたら火を除き水を打、柄実を剥ぐのを「とぶ柄実」(黒)と言います。その次を「阿け柄実」(アイカラミ)、その次を「赤湯からみ」(褢カラミ)と言います。
(この時に取り除く柄実(不純物)を「壱番からみ」と言い、次回の銀を吹くときの「地吹」に使用します。)
6.炉の中に残る鉛合金の「赤湯」に水をかけるのに直接水をかけると飛ぶので「床蓋」と云う藁で丸く作った物を鉛湯の上に置き、その上から水を掛け冷やします。
7.取り上げた銀と鉛の合金を「下り地」と呼び、床屋役人は重さを計測記帳し灰吹床へ渡します。
(炉に残るものを炉滓と言い、次回の銀を吹くときの「地吹」に使用します)
【灰吹床】
真中に鍋を置き、その中へ灰を入れ炉を作ります。作業は、買石がおこないました。
《水筋(自然金)》
1.炉(鍋)の中へ筋金湯(下り地)を入れます。
2.上に火を置き、鞴を差して良く溶かし、更に上に炭の火を乗せ炉の周りに火を並べ、湯色に見えるまで鞴を差すと鉛は次第に灰に染み込み、筋金は炉の内に溜まります。
3.鉛気が抜切るのを「かふる」と言い、かたまりになります。火を除くと「勢」と言い、筋の面が雪の降ったようになります。
4.火箸で取揚げ、別に塩を焼置いた中に入れ、しばらく蒸置くと、黄色くなります。これを筋金の色付と言います。
(絵巻では寄床屋での「色付け」はなく、「金銀吹分床屋」で〔Ⓗ〕おこなっています)
20匁以下の水筋は「水下し」と言い、灰吹床で直接吹きました。これは水筋の重さに応じて鉛を入吹き熔かし、水筋を紙包とともに吹きます。
灰吹床で吹きあがったものを「面筋金」と云います。床屋役人が天秤で重さを量り記帳します。重さは水筋から3~4割くらい目減りしますが、採掘する「敷」の違いにより異なります。
金銀改役は書付と一緒に買石に渡します。
《汰物(輝銀鉱砂)》
1.床屋役人は重さを計量・記帳し灰吹床へ渡し、筋金吹と同じで鉛は灰に染み込み「銀かぶり」の時に火を除き、水を少々掛け冷やして取揚げます。
2.炉に残るものを炉滓と言い、次回の銀を吹くときの「地吹」に使用します。
取揚げた銀の裏に付いている炉滓を落し、良く冷やし、床屋役人へ渡し計量・記帳します。これを「山吹銀」と言います。
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Ⓑ【「床屋番役人」「買石」】
Ⓒ【「三ヶ所共 大吹床」
「炭」「吹大工」「△」「△△△」「赤湯」「褢カラミ」「アイカラミ」「黒」】
Ⓔ【鉄 鉛】
Ⓓ【焼汰物蒸焼之所】
22.金銀吹分床屋
「汰物(輝銀鉱砂)」を吹き分けてできた「山吹銀」には金が少々含まれており、さらに金と銀を分離し、「分筋金」と「灰吹銀」にする施設です。
この「金銀吹分床屋」は奉行所の管理下に置かれ、相川の上京町にありましたが、金・銀の密造や密売防止のため、宝暦9年(1759)に「寄床屋」や、買石宅にあった「粉成場」も含め、「寄勝場」として奉行所内の敷地に移されました。
(買石を排除して寄勝場が奉行所の直営になったのは1782年(天明2年)です。)
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Ⓕ【金銀吹分床屋之図】
Ⓖ【「金銀改役」「分筋金」「灰吹銀」「分床屋番 役人」「買石」「分床屋 床主」】
23.金銀吹分床屋
「14.鉱石荷分け」から難しくなり、寄床屋からは「$◎△×¥&%#」です。
そんな中、参考になるwebサイトを発見しました。
【 治金の曙 】です。
サイト内に、佐渡金銀製・精錬関係の史料集として
「ひとりあるき」(佐渡金銀山の史的研究)
「旧幕時代の鉱山技術」(佐渡金銀山史話)
「獨歩行」
「吹塵録・吹塵余録」
「院内銀山惣而吹方之次第書上」
「佐渡金銀山記・伊勢員弁郡鉱山記」
の6つが紹介されています。
同じ「吹き方」の説明でも表現が若干異なります。
その中で、この絵巻の「金銀吹分床屋のイメージ」と似ているのが「佐渡金銀山記」でした。
(『佐渡金銀山の史的研究(ひとりあるき)』にも「金銀吹分所初発之事」がありますが、歴史的な変遷が記されており「同二寅年金銀山稼方并鏈粉成吹方共御直稼ニ成候ニ付」と1782年(天明2年)に直営になった経緯などが記されていますので後述します。)
「佐渡金銀山記」を参考にした吹分説明
1. 買石が持ち込んだ「山吹銀」は、書付(切手)とともに分床屋床主に渡され、計量・記帳されます。
2. 次に、大吹床の分大工に渡され、分大工は山吹銀の質を確認し、炉の中に入れ吹き上げます。分床屋番役人が監視し、買石も立会っています。
3. 「湯」になったら、「さし鉛」を少し加えます。「さし鉛」を入れる量は分大工が銀の湯色を見極めて調整します。
4. 良く熔けたら火を除き、硫黄をかけ、「△△木」で、かき回します。
5. 湯色が赤くなった時が、銀が表面に浮き出るのときなのでそれを見届け、「黒物舩」に入れてある水で「藁ほうき」を湿らし、水を掛けます。
6. 少しずつ水を掛けると1枚づつ薄く剥がれのを銀皮と言います。水を掛け、何枚も皮を剥ぎ、銀が冷めたら、また火をかけ吹いて良く湧いたら火を除き、また硫黄を掛けて皮を剥ぎます。分大工は炉の状態を見極めながら皮を剥ぎます。
(鉱石がとれた「敷」や寄床屋での吹き方により剥ぐ枚数も異なります)
7. 炉の底に残るのが筋金なので、分大工は炉に残る筋の品位を見極め、水を掛け冷やして取り揚げます。これを「一番皮筋」と言います。
8. 次に、銀皮を集め炉で吹き、硫黄をかけ、銀皮を剥ぎます。
炉の底に残る筋金を「二番皮筋」と言います。
9. 「一番皮筋」と「二番皮筋」を一緒に吹き、皮を剥ぎ、筋の状態を見極め取り揚げます。これを「詰筋」と言います。
10. 役人が「詰筋」を計量し灰吹大工に渡します。
11. 灰吹床では寄床屋と同じ要領で吹き、鉛分を除去します。買石が立会い、分床屋番役人が監視しています。灰吹大工は、筋金を取り揚げ、塩にて色を付けします。
「山吹銀」が金銀に吹分けられ、金を「分筋金」、銀を「灰吹銀」と言いました。
12. 出来上がった「分筋金・灰吹銀」は、金銀改役が立会いのもと、分床屋番役人が計量・記帳し、床主に「目利切手」を添えさせ、奉行所の御買上品となり、小判所へ渡されます。
「金銀吹分所初発之事」によりますと、灰吹銀に、まだ金が含まれていそうなので
宝暦10年(1760年)
灰吹銀を再吹分したところ筋金が出ました。調べた結果、再吹分の経費を相殺しても利益があることがわかりました。
宝暦11年(1761年)
別に「再吹分床屋」を建て、役人4名を置き、以前と同じように分床主が吹大工等の仕事師を雇い入れ、灰吹銀を再吹分しました。
安永4年(1775年)
年々「分筋金」も少なくなり、「再吹分床屋」で利益が出せないので中止を伺いましたが
「再吹分」は続きました。
安永5年(1776年)
買石が「山吹銀」を吹分け、「分筋金」を取り揚げたあとの灰吹銀を後藤役所で見てもらうと、吹き方が悪く、後藤役所で吹き直すため1貫目に付き28匁の吹欠になります。
そこで買石は、1貫目に付き29匁の値上げを奉行所にお願いしました。
安永6年(1777年)
奉行所は吹分けの品質を高めるため、再分所に新規の役人5名を加え、定掛御目付役1名、銀見1名、吹大工3名、板取1名、鞴指3名、小遣1名を雇い対応しました。
尚、再吹分の吹欠も考慮し
半分は無代の上納、半分は灰吹銀1貫目に付き銭62貫文の積り代銭にしました。
天明2年(1782年)
粉成・吹方含め金銀山の稼方は奉行所の直稼(直営)となりました。
「分筋金」には、まだ銀が30~40%前後含まれています。
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Ⓗ【「灰吹床」「小鞴」「筋金△ニ而色ヲ付ル」「灰吹大工」「買石」「分床屋番役人」】
Ⓘ【「買石」「大吹床」「ほうき」「杓子」「△△木」「ナビ」「火バシ」「挟」
「黒物舩」「炭」「さし鉛」「銀皮」「分大工」「硫黄」「大鞴」】
24.小判所 (筋金惣吹)
名奉行として島民にも慕われた鎮目奉行の就任は元和4年(1618)からで(竹村九郎右衛門との2名体制)
鎮目奉行の施策により、相川金銀山が復興します。佐渡奉行所の記録を編年体にまとめた『佐渡年代記』によりますと
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【元和4年(1618年)】
これまで、筋金の吹立ては町人が「筋受座」でおこなっていましたが、密売があるので廃止し、役人が取り仕切る「公儀座」を開設。
吹分床屋の建築が7月8日より始まり、12月に完成。味方但馬が割間歩で寸法樋を使い10日間で数万荷の鏈を出す。
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【元和5年(1619年)】
金銀山の様子日増しに盛んになり、佐渡のみで通用する「極印銀」を製造し(笹吹銀を打ち延ばした灰吹銀を鋏で切り加工)、支払等で流通させます。
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【元和6年(1620年)】
金銀山大盛に付き、山師等に支払う現金が不足し
「筋金江戸へ出し両替せしむる所佐州の糴直段よりは金三百貮拾両價相增候に付」
(筋金を江戸で両替すると、佐渡の相場より320両多く必要)
元和6年12月13日から12月22日の10日間で割間歩からの鏈10,200荷。
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【元和7年(1621年)】
鎮目奉行の上書(これまでは筋金を江戸へ出し、小判に引換、佐渡に運んでいるが、海上輸送に不安があるので佐渡で小判を作らせてほしい)に対する下知(指令)が7月20日にあり、後藤庄三郎の手代を派遣することが決まり、元陣屋敷之内に庄三郎役所を建てる。
(現 相川病院)
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【元和8年(1622年)】
5月、後藤庄三郎の手代 後藤庄兵衛、山崎三郎左衛門、浅香三十郎、小判師数名が佐渡に派遣され、奉行所の向かいに施設(後藤役所)を構え、金座の仕事をさせます。
しかし、「今年も(元和8年)灰吹銀を江戸へ出し、小判と引き換える」とありますので、実際の佐渡小判(慶長小判)の流通は元和9年(1623年)なのでしょうか?
寄勝場(宝暦9年)ができると、そこに筋金焼所、小判延所の2施設で小判を製造したのち、1ヶ所の小判座(小判所)となりました。
これにより佐渡産出の金で佐渡で小判を作り、その小判で経費を支払い、残った小判は上納することになります。
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※ 田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』刀水書房,1986年の694頁に舟崎文庫の資料として、元和期(1621年~)に佐渡で作られたと伝えられる慶長小判の図が描かれています。
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佐州仕立 慶長小判
佐州仕立 金銀図
後藤三右衛門
佐渡役所において元和年中より金銀取扱方并度々吹替被仰付候小判分判等の形極印之文字等取調申上候様被仰渡候処元後藤庄三郎江戸佐州役所共類焼旧記焼失仕巨細之義者相知申候得共相残り候書留申伝之趣を以取調左ニ申上候
一、元和七酉年後藤庄三郎役人并吹所之者佐州江出張仕慶長金仕立候由申伝候
慶長小判分判とも寸法等之儀元庄三郎江戸佐州役所共類焼之節旧記焼失仕巨細之儀相分り不申候
※ 後藤三右衛門
1810年(文化7年)、11代目の後藤庄三郎光包が金貨鋳造時に品位を不正に操作し、金目を横領したとして、三宅島に流罪になり後藤庄三郎家は断絶しました。
その跡目を継ぎ、文化7年8月13日に金座の統轄者(12代目御金改役)に就任したのが
後藤三右衛門孝之です。(初代後藤庄三郎の養子庄吉の子孫で、当時銀座年寄役を勤めていました)
江戸、佐渡の双方の役所とも、他の所から出火した火事により古い記録が焼失し、詳しくは不明ですが残存する書類と言い伝えを調査した結果とあります。
また、699頁の灰吹銀之図のあとに
右御尋ニ付申上候尤銘々金位高下等之儀者隠密之儀ニ御座候得者難申上候依之申上候、以上
・ 子正月
次の700頁には、活字で「文化二卯年七月文字金吹直被仰付」とあり、文政小判と思われる図があります。
※ 文化2年(1805年)は乙丑です。
文政2年己卯(1819年)が卯年なので「二卯年七月文字金吹直被仰付」は1819年(文政2年)の誤りと思われます。
したがいまして、後藤三右衛門が記した「子正月」は、文化13年丙子(1816年)の1月になります。
(後藤三右衛門光亨の 13代目就任は、文化13年12月となっています )
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Ⓙ【「小判所ヨリ 筋金惣吹之図」「役人」「目付役」「四歩一切留 付口金 四本」】
Ⓚ【「金銀改役」
「火ニ而かわかし候 筋金之内百目 取灰吹床遣す 残ハ五百目包ニ 仕候」「町人」】
Ⓛ【「筋見」「筋金吹とかし候処」「吹融候筋金細ニ切砕」「細ニ切砕候御筋金洗ふ」「洗候筋 △候処」
「百目之筋金此灰吹床ニ而 四歩一切留付△△ 四本仕処」】
25.小判所 (砕金)
説明文
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Ⓜ【「小判所之図 △目砕金之次第」「炭吹△」「炭」「かな場」「入口」】
Ⓝ【「長弐間半」「焼金竈」「横弐尺」「焼砕候金ふるい分ル」「柱ノ根土ニ而△上廻」「上△入」「筋見共」「小判所役」「目付役」「千両棚」「鉄△」「△石」「筋見共」】
Ⓞ【「千両棚」「鉄△」「△石」「筋見共」「砕金床△」「吹大工」「小判所改役」】
Ⓟ【「延金床」「金床」】
26.小判所 (焼金)
説明文
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Ⓠ【小判所ニ而 焼金之図】
Ⓡ【「筋見共」「塩ニ砕金 ませ合 土器ニ盛候而 焼金竈へ遣ス」「長挟」
「塩」「かわらけ」「塩ニ 砕金 ませ 合 △△△ ニ而 △ヲ 付」「