うしろみの家 とは?
(上略)同十月十日に依智を立ツて、同十月二十八日に佐渡ノ國へ著キぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申ス山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の佛もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ユる事なし。かゝる所にしきがは(敷皮)打チしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし。晝は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。(下略)
10月10日に厚木市の依智を出発し、10月28日に佐渡に着いた。
住居は11月1日に本間六郎左衛門が家のうしろみの家から、塚原という山野の中にある死人を捨てる場所のお堂に移った。
一間四面のお堂で仏像もなく、屋根も壁も荒れ果てていて、お堂の中に雪が降り積もって消える事がない。こういう所に敷皮をしき、蓑(ワラを編んで作られた雨具)を着て日々を過ごす。夜は雪・雹(ヒョウ)・稲妻が絶え間なく、昼は日の光もさしこまず、心細いのが当然の住居です。
上記の遺文から、佐渡到着が文永8年10月28日で、塚原入が11月1日とわかります。
(西暦換算すると1271年12月8日が佐渡着で、塚原入りが12月11日)
当時は【一九年七閏法】という暦法により、文永8年の10月は30日間(文永8年の1年間は355日)(文永7年は9月が閏9月と2回あり、10月は29日間で年間384日)だったみたいです。
そうすると、佐渡到着から塚原に入るまでの3日間、日蓮聖人はどこで過ご(宿泊)したのでしょうか?
田中圭一先生の(2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版.によれば、P.38に
とあります。
しかし、10月28日の松ヶ崎泊りは納得できますが、10月29日・30日の2日間の日蓮ご一行の宿泊先は、本当に本間六郎左衛門の館なのでしょうか?
9月12日に鎌倉にいる佐渡守護の北条宣時が日蓮聖人の身柄を預かってから、佐渡到着までの45日間。守護代である本間六郎左衛門には、北条宣時からの日蓮に対する指令や罪状などの情報も、すでに届いていたはずです。
そして、本間六郎左衛門は佐渡の実質的な管理責任者です。島で起こりうる事象を管理、コントロールしなければいけない立場です。
本間六郎左衛門は日蓮聖人ご一行を、どのように理解し、受け止め、準備したのでしょうか?
その答えを遺文から探ってみますと
日蓮聖人が語る佐渡の印象と感想
文永8年(1271年)11月23日
「人の心は同ク禽獣二不知主師親ヲ。」
佐渡の人々の心は鳥やケモノのようで主君や師匠、親をわきまえない。
文永10年(1273年)
「例せば此佐渡ノ國国は畜生の如く也。」
例えれば佐渡の人々は畜生のようなものである。
建治元年(1275年)4月
「からくして行キつきたりしかば、殺害謀叛の者よりも猶重く思はれたり。」
佐渡では殺人や謀反の者よりも、もっと重罪の者と思われた。
建治元年(1275年)5月8日
「彼島の者ども因果の理をも辦へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申ス計なし。」
佐渡の人々は、因果の理もわきまえぬ粗暴者で、あたりが荒い。
弘安元年(1278年)7月28日
「佐渡の国へ流されたりしかば彼國の守護等は國主の御計ヒらいに随ヒいて日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。」
佐渡の守護等は北条宣時の指示にしたがって、日蓮を迫害した。島民はその命に従った。
上記の遺文の内容から、本間六郎左衛門が日蓮聖人達の行動を制約する施策をとったことが推察されます。
また、このことは、伊豆配流の経験値が崩れた日蓮聖人の誤算でもありました。
本間六郎左衛門は、佐渡の管理を任された守護代で中間管理職の立場です。上司の意向に沿うように、佐渡を治めなければいけません。
日蓮聖人の類いない話術とカリスマ性・他教徒に対する考え方が危険なことは、北条宣時から聞き及んでいたと思います。
「島の平穏無事を考え、まずは様子見のためにも、日蓮達を島民から隔離し、行動を制約する。」
本間六郎左衛門はこのように考えたのだと思われます。
ガバナンスの維持・強化の論理は、いつの世も変わらないと思います。
そして、本間六郎左衛門が隔離するのに選んだ場所が
「うしろみの家」と「塚原」なのです。
(塚原と申ス山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所)
それにしても、「うしろみの家」とはどんな家なのでしょうか?
日蓮聖人遺文の同異
『新版 日蓮と佐渡』P.41-42に、『諸本における「遺文」の異同』と題して、次のように記述しています。
本書で引用する「日蓮遺文」は、基本的に「昭和定本 日蓮聖人遺文」(平成十二年四月二十八日改定増補第三刷)に準じている。
しかし、日蓮の「塚原配所」を考察する上で重要な、「種種御振舞書」の「六郎左衛門が家のうしろ」についての記述は、遺文を収録する諸本によって異同が見られる。私の手もとにある諸本の異同は次のようなものである。
「日蓮聖人遺文講義」(浅井要麟著)、「創価学会版 日蓮大聖人御書全集」(堀日亨編)では該当箇所を、
「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に」
と記し、「昭和定本 日蓮聖人遺文」(立正大学日蓮教学研究)、「昭和新訂 日蓮大聖人御書」(同書編纂会編)では、
「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に」
と記している。意味はそれぞれ、
「六郎左衛門の家の後の塚原という山野の中に」
「六郎左衛門の家の世話人の家から塚原という山野の中に」
となる。前者が、「六郎左衛門の家」と「塚原」との位置関係を表す文であるのに対し、後者は単に、日蓮の移動の始点と終点を表すだけの文である。
どちらが正しいのかという論議はあろうが、本書ではこの問題には立ち入らない。どちらにしても、本書で「守護所」「本間重連の館」「塚原配所」などの場所を検討していく上で、決定的な要素としては採用しないからだ。また、本書で検討した結果をもって、遺文のこの箇所を振り返ったとき、どちらの読みであったとしても、矛盾を生じないということもある。
ただ、引用するにあたっては、どちらかを選ばなければならない。何冊か日蓮関係の論文や伝記に目を通しみたが、「六郎左衛門が家のうしろみの家」説で書かれているものは見当たらなかった。
よって本書では、大野達之助氏の『日蓮』(吉川弘文館)、石川教張氏の『日蓮聖人の生涯』(水書房)等と同様に「六郎左衛門が家のうしろ」説を取り、塚原と本間重連の館との位置関係を表す遺文として使用する。
田中先生は、「本書で引用する「日蓮聖人遺文」は、基本的に「昭和定本」としているのに
なぜ、塚原表記の部分だけ、伝記を参考にして「昭和定本」の表記にしなかったのでしょうか?
塚原の場所が特定できないのに、
「塚原と本間重連の館との位置関係を表す遺文」として何故、使用したのでしょうか?
「遺文のこの箇所を振り返ったとき、どちらの読みであったとしても、矛盾を生じないということもある」
とありますが‥‥。
無間地獄ならぬ矛盾地獄!?
このことを踏まえ、あらためて「うしろみの家」の意味を
「昭和定本 日蓮聖人遺文」の表記解釈である「六郎左衛門の家の世話人の家」として時系列にしてみますと
- 9月12日 午後6時頃御勘気(幕府の怒りに触れ、罰を受ける)《評定所で流罪決定》【土木殿御返事】
- 9月12日 夜北条宣時の管理下となる【土木殿御返事】
(流罪場所が佐渡になったため)北条宣時は佐渡の守護職 - 9月13日 午前2時頃鎌倉を出る《依知まで身柄を送致される》(依知の本間六郎左衛門邸まで)【土木殿御返事】
- 9月13日 昼12時頃本間六郎左衛門の代官、右馬太郎が身柄を受取る【土木殿御返事】(代官所牢屋 泊)
- 10月10日依智出発。身柄を佐渡まで移送【種種御振舞御書】(本間六郎左衛門配下による護送)
- 10月28日佐渡 松ヶ崎 到着【種種御振舞御書】(松ヶ崎 泊)
- 10月29日佐渡守護所 到着身柄移送完了。取り調べ。本間六郎左衛門が日蓮聖人に接見
(佐渡守護所牢屋もしくは うしろみの家 泊) - 10月30日取り調べ完了(佐渡守護所牢屋もしくは うしろみの家 泊)
- 11月1日塚原での流人生活の始まり西暦換算1971年12月11日
「本間六郎左衛門重連(シゲツラ)」
佐渡での職分は、佐渡を所領地とする北条宣時(ノブトキ)の代官。
相模國依知郷を支配しており、館(城)は、金田・中依知・上依知の3ヶ所にあったといわれております。
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