鶴子銀山の産銀はいずこへ
橘正隆(1959)『河崎
6貫目×600箱×3.75㎏変換=13,500㎏???
銀1g60円とすると、8億円???
ありえない内容がどうしても気になり、図書館で「藤田丹波覚書」を調べてもらいました。
藤田丹波覚書
図書館では、いとも簡単に『上越市史別編5』の148ページや『大日本地名辭書』の4505ページ、『山形県史 資料篇 第5 鶏肋編 上』 835ページに載っている旨を教えていただきました。
???何故、ページ数まで???
答えはGoogle検索でした。キーワードを入力し、「検索」→「もっとみる」→「書籍」をクリックするとGoogleブックスが表示され、Googleに登録されている書籍の内容がヒットするとのこと。もう一つ教えていただいたのが、国立国会図書館サーチ。日本国内で出版された すべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館だそうです。図書館の方曰く、Googleブックスでヒットしたらラッキーぐらいに思っていたほうが良いとのことです。それにしても目から鱗の出来事でした。
さっそく『上越市史別編5』は図書館で借りました。146ページから「覚」として14項目あります。
出典上越市史編さん委員会(1999)『上越市史 別編5』上越市,
覚 藤田丹波
- 一、景勝小出と申城御せめ候時、ゆミの庄へ御はたらき候、城より取合一戦御座候、拙者拾六の年鑓仕り、~
- 一、荒城と申しろせめ申時、十七にて一番高名仕り候、~
- 一、池田と申城ニ山しき門兵衛と申もの~
- 一、八月廿日ニゆミの庄の城へ佐々蔵介越前・加賀~
- 一、次ノ三月四日ニ蔵介殿押よせつけ城五ツ仕候、~
- 一、景勝境ノ城せめ申さるゝ時、~
- 一、小田原落城ノ時庄内みさきのしたに、~
- 一、もかミ屋ちの城ニ下対馬ろう城~
- 一、四月廿四日ニ出羽拾弐郡の人数を以亀ヶ崎をせめ~
- 一、関ヶ原御合戦の年七月十九日ニ~
- 一、小関賀左衛門と申もの子を越後へ~
- 一、さかい忠介と申者おやおぢ~
- 一、景勝領分の米舟ニ仕り石見国湯津へ参候、~
- 一、次ノ年 景勝上米舟六拾そう余り越前の浦々にそんさし申候、右ノ舟に佐渡へ銀子六貫目入の箱百あまりのほり申候、越前浦にて地の者かねも米も取ちらし、其上うわのり舟頭共ニはたかニ仕り候、拙者ハ、新保ト申津へ船拾そうつき申候、米弐千石・らう・うるし・塩引まで蔵入仕り、其夜舟十そうなから打わり申候、地下の者三百計にておしかけ蔵をやふりて可申由承り、きもいりおとな四五人のおんなを証人ニ取、鑓てつほうにて舟衆百人あまりめしつれ蔵の番をさせ、直江山城かたゑ飛脚つかい申候へハ、山城方より治部殿へ使者を以被申候へハ、神五兵衛・間渕伝左衛門両人を被使、ぬれ米なと被相返候、時々の相場ニ銀子請取申山城殿へ披露申候へハ、両年の間舟手の手柄無比類由対馬方へ被申越、拙者ニごふく壱重路銭ニ銀五枚拝領申候、此時 御所様より越前浦々へ御人数被遣御せんさく候得共、米もかねもいれ不申候問、所々の代官肝煎ともニ百人あまりはた物ニ御上ケ申候、此儀無隠候間、不入事にて候得共、天下の御さはきの時分ニ候間書付申候、弓矢の事ニて候ハ、天下ニ名を上ケへきときと存申候、此外ニもかき可申事候得共ことなかく御さ候間、連々御聞可被成候
元和八年霜月廿八日 藤田丹波
また、『大日本地名辭書』には、酒田港の記述として載っていました。
出典吉田東伍(1907)『大日本地名辭書』冨山房, (国立国会図書館デジタルコレクション)
元和八年藤田丹波覚書云、(略)
次の年、景勝上米舟六十そう餘、越前の浦にて損し申候、右の船に、佐渡銀子六貫目入の箱六百餘登申候處、浦の者共銀も米も取散し、其上、上乗船頭共迄はたかに仕候、拙者は、新保と申津へ船十そうつけ、米二千石、らう、うるし、鹽引迄蔵入仕り、其夜十そうながら打破申候所、地下の者三百許押懸蔵を破可申由承、肝煎おとな四五人の女を證人に取、鑓鉄砲にて、船衆百人余召連、蔵の番をさせ、直江山城方へ飛脚つかひ、山城方より治部殿へ被申上候へば、御所様より、越前浦々へ御人数被遣、御せんさく、所々の代官肝煎とも百人餘はたものに上候。〔大泉叢志〕
出典橘正隆(1959)『河崎
「藤田丹波覚書」。景勝上米船六拾艘余越前の浦ニ而損じ申候、右之船に佐渡銀子六貫目入の箱六百余登申候処、浦之者 銀も米も取散し、其上上乗・船頭共迄はだかに仕候。拙者は新保と申津へ船十艘つけ、米弐千石・らう・うるし・塩引迄蔵入仕、其夜十艘乍ら打破申候所、地下の者三百許押懸蔵を破可申由承、肝煎をとな、四、五人の女を証人に取、鑓・鉄砲にて船衆百人余召連蔵の番をさせ、直江山城方より治部殿江被申上候へば、御所様より越前浦々へ御人数被遣御せんさく、所々の代官・肝煎とも百人余はたものに上候。
『鶏肋編』(けいろくへん) と『大泉叢誌』(たいせんそうし)
『上越市史』の記述と『大日本地名辞典』の記述が若干?異なります。
まずは、船に積んでいた佐渡銀子の量が違いすぎます。
この表記の違いは何でしょうか、どうやら出典元の違いのようです。
『上越市史』や『山形県史』の出典は、『鶏肋編』。『大日本地名辞典』は『大泉叢志』とあります。
『鶏肋編』は、庄内藩、藩校致道館司書を勤めた、加藤正從が文化3年から天保5年まで約30年を費やして庄内藩の諸古文書を筆写・整理したもので計92冊あり、山形県史 資料篇 5・6に全文掲載されています。
『大泉叢誌』は、庄内藩士、板尾宋吾が文化4年の蟄居中に庄内の古記録を記述・整理して編集したもので、子の万年、孫の清風と3代にわたって執筆を継続し完成させ、計139冊と附図35枚があります。
どちらも山形県指定文化財になっており、公益財団法人 致道博物館が所有しています。
お問い合わせの「藤田丹波覚書」の件ですが、
まず、該当箇所は「大泉叢誌」巻31に収録されています。
確認したところ、「銀子六貫目入の箱百余り」と記載されていましたので、
おそらく『大日本地名辭書』の誤記かと思われます。
なお、「大泉紀年」という、江戸時代前期の庄内藩史をまとめた史料にも、
「銀子六貫目入の箱百あまり」とあり、上記と同じ記載でした。
それにつけても、すごいよ庄内藩。『鶏肋編』に『大泉叢誌』それに『大泉紀年』と、三つもあるなんて、凄すぎです。
『大泉紀年』もお調べくださいました致道博物館の学芸員様、厚く御礼申し上げます。
『大日本地名辭書』の「箱六百」表記が間違い(誤植?)と判明しました。
まずは、納得です。
したがいまして『河崎村史料編年志』552ページの「藤田丹波覚書」は、吉田東伍(1907)『大日本地名辭書』冨山房, から引用したものと合点しました。
藤田丹波と元和8年
出身は弓庄(富山県)で、最初は土肥家臣みたいです。その後「上杉?」、慶長出羽合戦で「最上」と渡り歩き、元和8年に「酒田」新生 庄内藩に士官するわけですから
藤田丹波さんも時代に翻弄された一人と言えます。
「覚」の最初に、小出城が出ています。景勝が富山小出城を落としたのが(天正10年)1582年です。この時の丹波さんは16歳とありますから元和8年の庄内藩 再就職時は56歳?でしょうか。
それにしても『鶏肋編』に記されている藤田丹波覚を見ていると履歴書のように感じ取れます。
同年代として、身につまされる思いです。
もし、私が56歳のとき会社が倒産して職を失ったら‥。
再就職先で自身を売り込むには、話を盛るのも必要悪とは思います‥。
丹波さんは新生 庄内藩で海運の職務につきたかったのでしょうか?
出典阿部正己(1937)『庄内人名辭典』言霊書房, に藤田丹波が載っています。
上杉氏の士なり、諸所の戦場に参加して功あり就中小田原北條氏征討に随ひ戦功あり、慶長五年下對馬守谷地に籠城せしが直江軍引退せしを以て原美濃、中澤志摩と對馬守を勤めて開城せしめ再び對馬守大山城主となるに及び丹波も降りたり、翌六年下對馬守と坂田城を攻めて陥る。元和八年最上氏改易に及び先亡五十三騎と庄内酒井氏に仕ふ
まずは、再就職できたみたいです。
上記『庄内人名辭典』に「上杉氏の士」とあります。
藤田丹波さんが気になり、ちょっと調べてみました。
『新潟県史 別編3』に「文禄三年定納員数目録」が載っております。この中で、藤田丹波の名を探しましたが、何度見ても見当たりません。
上杉の士とあるのに、「文禄三年定納員数目録」に藤田丹波の名前がない?
見間違い、誤植の可能性もあります。???
次に、丹波さんの自己申告(覚)に基づき、弓庄城(富山県中新川郡上市町)時代を探ってみました。今度は見つかりました。
出典富田景周(1798)『越登賀三州志』(手書き)
(石川県立図書館 デジタル図書館 貴重資料ギャラリー)
佐々成政與土肥政繁數交兵
八月六日佐々成政利兵ヲ以テ土肥美作守政繁ノ弓庄城(略)ヲ囲ム藤田丹波(政繁ノ臣)出テ白倉豊丞ト槍ヲ合スト云(略)
藤田丹波は土肥政繁の家臣であると、寛政10年(1798)に富田景周は言っています。(記しています)
ですから、藤田丹波のルーツは弓庄で確定ですが、上杉に在籍していたかは不明です。
ちなみに、景勝の船難破の件で、福井県立図書館からご回答をいただきました。
三国町にも新保浦があるとのことです。そうしますと越前国(福井県)で海岸に面している地名で「新保」が二つあることがわかりました。
お忙しい中お手数をお掛けいたし ありがとうございました。
越前町(1977)『越前町史上巻』、三国町教育委員会(1964)『三国町史』。
三国町と越前町の間にある越廼村の 越廼村(1988)『越廼村誌 本編』。
越前町の南に位置する河野村(1984)『河野村誌』、そして『福井県史』と調べていただきましたが、どこにも記述がないという結果をいただきました。
福井県立図書館 郷土史料班の方、大変ありがとうございました。
したがいまして、『鶏肋編』や『大泉叢誌』の記述にある「次の年景勝上米船六十艘余越前の浦々ふて損し候」の事実は、なかったと断定(個人的)しました。
しかし、当時の佐渡では鶴子銀山や滝沢銀山(新穂銀山)など、かなりの量の産銀がありました。
そして、慶長三年蔵納目録に上杉景勝の銀(佐渡産銀)の運上記録がないのは事実で不思議です。
佐渡・庄内ガストロノミー
今回、庄内藩士 藤田丹波さんの紡いだ覚書がご縁となり
佐渡と庄内の繋がりを再確認できました。
2019年は「新潟県・庄内エリア デスティネーションキャンペーン」です。
藤田丹波が「覚」を記した日付が11月28日。
DCキャンペーン期間真っ只中です。
ぜひ、庄内・佐渡を旅してください。
鶴岡市にある致道博物館では、2019年5月頃「大泉叢誌」巻31を収録した本を販売予定です。
この本の中には藤田丹波の覚が載っております。
この冬、庄内の地で この本を開き 藤田丹波に思いをはせ
あなたがトレジャーハンターとなり 消えた佐渡産銀を追ってください。
佐渡に来て、銀があった確証をつかんでください。
佐渡と庄内、 交わるところに 必ず答えがあるはずです。
そして 私に おしえてください 伏見に佐渡銀子がないワケを
佐渡(新潟)・庄内ガストロノミー
庄内藩士・藤田丹波が食したはずの「いもがら」や上杉の士が佐渡で食したであろう「いごねり」の さりげない食。
そのさりげなさにこそ、食を育んだ庄内・佐渡の歴史や文化が秘められています。
藤田丹波がいざなう旅 佐渡(新潟)・庄内ガストロノミー
答えを知る旅に お出かけください。
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