★★ 佐渡を世界遺産に! 佐渡金銀山絵巻でみる錬金術師たち ★★

本間でっか!?

ホンマでっか!? 本間です。

 今から約10年前のNHK大河ドラマ「天地人」のとき、佐渡の城主が本間だらけで、面食らったのを憶えています。(河原田:本間佐渡守高統・雑太:本間信濃守高滋(佐太郎)・久知:本間加賀守泰亮・沢根:本間摂津守永州(佐馬助)・羽茂:本間対馬守高貞 等々)

天正17年(1589年)7月7日。河原田城陥落当時の佐渡のお殿様たちでした。

日蓮聖人遺文によりますと、文永8年(1271年)当時の佐渡守護代は、相模国依智郷(現・厚木市)の本間六郎左衛門重連です。

天地人と同じ「本間」!? その年代差318年。天正時代の佐渡のお殿様「本間」の皆様は、文永8年の本間六郎左衛門のDNAを受けつぐ方々なのでしょうか?

河崎村史料編年志
また、私の歴史バイブルでもある
橘正隆(1959)『河崎村史料編年志 上巻』河崎公民館. p.283に、

「文永六年 1269 四月の下行札に、当地頭本間山城云々、と記されたのが、

佐渡に於ける本間文証の初見である」 とあります。

つぎのP.284に木製の札2枚の画像を載せており、

下行札

下行札 (畑野町史 松ケ崎篇 万都佐木より転載)

「(表)正四位下行。(裏)当地頭本間山城口口入道口口」
「(表)正四位下行。(裏)文永六年巳四月廿二日」

と書かれているらしく、註釈として

「これを土地の人は下行札とよんで居り、或は住吉神社の分霊が渡った時のものとも、又は公用船の標識札ともいわれている。恐らくは、公用船の家形にかけて、その標識としたものらしく、このとき北条宣時が佐渡視察に渡島した訳ではなかろうか。本間山城兵衛入道とは、(略)」 とあります。

 

また、この下行札(げぎょうふだ)のことは『畑野町史 萬都佐木』でもp.40~P.45の6ページにわたり紹介しております。
松ケ崎郷土誌資料の記載ということで、松前神社の開創年暦縁起かも知れない木札とのことで、
当地頭本間山城口口口長政」 とあります。

河崎村史料編年志は13文字。松ヶ崎郷土誌資料は12文字で、文字数も、読み方も異なります。

いづれにしても、「当地頭本間山城」までは同じですので、文永6年(1269年)には「本間山城~」と呼ばれる人がいたのは間違いないと思います。

そうすると、文永6年の「本間山城~」と、文永8年の「本間六郎左衛門」は、

その差2年。 同一人物? 別人なの?

ホンマでっか!? 本間さん!?

ここまでくると、自分でも、訳が分からなくなってきます。 現在、依知(厚木市)に本間姓は残っているのでしょうか?

依知(厚木市)には六郎左衛門のことは、どのように伝承されているのでしょうか?

厚木市(依知)の方々に「本間」について、聞いてみたい。語り合いたい。

依知(厚木市)の方々とと交流の場を設けられたら、きっと楽しいだろうな。すなおに思う 今日この頃です。

 

プロジェクト名 「2021年を佐渡の大観光交流年に!」

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