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日蓮聖人だけが知る 塚原 の場所

文永8年11月1日(西暦換算1271年12月11日)この日から日蓮聖人達は「塚原」で過ごすことになります。この塚原とは、どういう場所なのでしょうか?

日蓮聖人が語る 塚原

遺文のワードをイメージすると、日蓮聖人が語る(教えてくれる)塚原が見えてきます。

【国府尼御前御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1063)
建治元年(1275年)6月16日
「野中に捨てられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみ(摘)て命をさゝえたりきり」
現 代 語 訳
野原の中に捨てられ、雪に膚をさらし、草を摘んで食べ、命をささえた

 

【法蓮抄】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第一巻P.953)
建治元年(1275年)
「栖にはおばな(尾花)かるかや(刈萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂」
現 代 語 訳
住まいは、尾花や刈萱の生い茂る野の中にある、死体を放置する場所(原)の落ち破れた草堂

 

【種種御振舞御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.971)
建治2年(1276年)
「塚原と申山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所に」
 現 代 語 訳
塚原という山野の中にある死人を捨てる場所に

 

【妙法比丘尼御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1551)
弘安元年(1278年)9月6日
「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし」
 現 代 語 訳
人里から遥かに隔たっている野と山との中間に塚原という死体置き場(捨て場)があり、そこに一間四面の堂があります。屋根の板は隙が多く、四方の壁は破れていて、雨が降れば外にいる様で、雪は室内に積もります。仏像もなく、床に敷く筵畳(むしろ)は一枚もありません

 

日蓮聖人が教えてくれる 塚原とは
  ① 塚原とは、死体を放置(捨てる)する場所の名前である。
  ② 塚原は、死体捨て場だから、人里から離れている。
  ③ 塚原は、山に近い野原にある場所。
  ④ 塚原という死体捨て場には、180cm四方の壊れかけた、お堂がある。
  ⑤ そのお堂とは、死者の冥福を祈るためにある堂である。(三昧堂)

つまり、

「人里から、だいぶ離れている山に近い、ススキやカヤが生い茂る野原に死体を遺棄する(風葬)場所」

が塚原なのです。

「塚原」の場所は、人里(垣ノ内)ではない と日蓮聖人(遺文)が教えています。

 

 

また、人が死んだあとの表現として、日蓮聖人は下記のように記しています。

【松野殿御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1441)
建治4年(1278年)2月13日
「野邊に捨られなば一夜の中にはだかになるべき身をかざらんがために、いとまを入れ衣を重んとはげむ」
現 代 語 訳
死んで野原に捨てられたら、どんなに着飾っていても、一夜で裸になってしまう。それなのに、身飾りのために多くの時間や手間をかけ、衣を着ようと努力する

ちなみに、武井成美(2017)『中世の死体放置をめぐって : 考古学的研究の可能性』内の記述に

 「一般庶民にあっては死体は遺棄すべきものであって、決して、後世に残そうとするものではなく、ましてや、尊崇すべきものではなかった事を知る事ができるのである」

とあります。

日蓮聖人のいた鎌倉時代は、佐渡も含め人が死んだ場合、遺体を火葬や土葬にするのではなく、河原や野原に放置(捨てる)するのが、普通でした。

 

先人たちが考察した「塚原」の場所

『畑野町史 信仰編』(1985年)によれば

「昭和11年に日蓮旧跡を追って来島した法老翁こと橘正隆が、従来の佐渡史には史実に反する点が多いことから自らの手で調査を始め、講演や新聞の投稿でそれを発表してからである。
まず昭和14年に刊行された『佐渡名勝志』の附誌に、橘は塚原仙道説を出した。
橘正隆の代表的な著作で最後の書でもある『河崎村史料編年志』では、のちに出される予定であった『日蓮聖人佐渡霊跡研究』に まとめて記述するために、日蓮関係記事はいっさい省かれた。
しかしこ の書は未刊のまま他界され、六冊の原稿や資料は農業高校が保管する橘鶴堂文庫に眠った。
昭和三十年前後に、当時両津高校勤務であった田中圭一氏らをはじめとする佐渡史学会の調査で、右の塚原仙道説は退けられて、目黒町妙満寺付近を塚原と推定する説が登場した。」

とあり、「塚原三昧堂がどこにあるのかについては、これまで諸説がだされていて」とし、4つの説を挙げています。

《A》仙道説  《B》妙満寺説  《C》川西説  《D》根本寺の三昧堂説

また、佐渡博物館の館長だった本間嘉晴氏が『佐渡中世流人 日蓮と京極為兼』(1989年)を出版し
《E》やせがひら丘陵説を打ちだしました。

これにより、塚原と推定される場所は 5ヶ所になります。

それでは橘 正隆氏(1892-1964)の 塚原仙道説とは どのよなものでしょうか?

《A》仙道説

橘氏は、『佐渡名勝志 註附』(1939年)の中で、
(要約)
日蓮聖人遺文に「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり」とあり、なるほど根本寺の所在地を大佐渡と小佐渡の間とでも見れば「野と山の間」と云っても差し支えないが、このような見方は観念上許されるべきではないとし、畑野村仙道こそ塚原だとする、6つの理由をあげています。
尚、この塚原仙道説は田中圭一(2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版. P.71にも記載されていますので、わかりやすいのでこちらを引用します。

仙道の付近が「なんだい野」というふうにいわれているが、それは日蓮のいう「蓮台野」の誤りか、または塚原問答の余香をとどめた「難題野」かもしれない。
仙道の南約三町の地点に「東海林屋敷(しょうじやしき)」と呼ぶ館跡があり、それが荘園の代官・本間重連の館跡と思われること。
その証拠の一つとして、近くの栗野江集落に金立権現(かなたつ)という社があるが、これは相模国依智の金田権現の分霊であると思われる。
身延山の宝蔵にある弘安4(1281)年の『佐渡奇瑞之図』(快似法師筆)は現地仙道に酷似している。
仙道は中山道のように山道で、松ケ崎から塚原にいたる交通上の一地点が集落名として残った のであろう。
仙道が「塚原」と呼ばれたかどうかに疑問は残るが、塚原という地名は共同墓地のようなところを指したらしく、仙道の付近が栗野江村(現・畑野町栗野江)の共同墓地に登録されていることから、やはりここが塚原であろう。

以上の6点が根拠とのことですが、

『新版 日蓮と佐渡』では、
「この説に対し、私は基本的な欠陥を指摘しないわけにはいかない。というのは、橘氏は守護所や阿仏房・国府入道などを考慮に入れていないからである。また、「佐渡奇瑞之図』には、たしかに「 安四年」の文字があるが、室町期の作と考えるのが一般的のようである。」

と、仙道説を一蹴しています。

また、『畑野町史 総編』(1988年)によりますと、「仙道説はこれを説いた橘法老の死去と共に薄らいでおり、それに代わる佐渡史学会などの多数の支持者のある妙満寺説が今主流であるかの感を与えている」としています。

《B》妙満寺説

田中圭一先生の説で『新版 日蓮と佐渡』の記載内容で 78ページに

現在の日黒町熊野神社から共同墓地あたりまでを「塚原」だと推定する最も大きな理由は、そこが 『日蓮遺文」の叙述と符合するからである。本間重連の館が波多にあって、その付近は広大な条里水田地帯である。その周辺に野や山は、目黒町村の丘陵部を除いてはまったく存在しない。だから、 『日蓮遺文』に符合する「塚原」はここ以外の地にはない。
このように「塚原」が特定されれば、「六郎左衛門が家のうしろ」「六郎左衛門が家のうしろみの家より」という「種種御振舞御書」の異同は、さして問題にすべきことではなくなる。とはいえ、日蓮の「六郎左衛門が家のうしろ」という記述のほうは、日蓮の住む堂からは前方に本間の館が見える、そういう情況を指し示しており、よりいっそう写実的な表現といえる。
また、阿仏房の家も、この推定「塚原配所」から徒歩圏にある。そして、阿仏房が日黒町に居住し ていたという見方は、すでに近世以前に存在した。というのは、阿仏房の子・藤九郎守綱の遺跡が目黒町に妙満寺として残され、現に藤九郎のものといわれる墓が残されているからだ。もちろん、それらのものが日蓮在島以来続いているとは思えないから、戦国時代か、江戸時代に入る頃に再建されたものであろう。

※ 『新版 日蓮と佐渡』には(旧版)『日蓮と佐渡』(1971年)があり、執筆者は佐藤利夫氏・小菅徹也氏・山本仁氏・山本修巳氏の4名、編者が田中圭一氏とあります。
ちなみに(旧版)『日蓮と佐渡』の90ページには

目黒町を塚原だと推定するもっとも大きい理由は、本間重連の館が波多にあって、その付近は広大な条里水田地帯で、野や山は目黒町村の丘陵部を除いてはまたく存在しないからである。守護所の西にあった寺が下国府房と呼ばれたことからすれば、東方にある目黒町は上手にあたる。だからもし日蓮遺文を正しいものとみれば、塚原はこれいがいの地にはなく、したがって阿仏房の家もこの目黒町になければならない。このことからすると、日蓮のいう本間重連の家のうしろという表現は、きっと日蓮の住む堂からみると前方に本間の館がみえるという、そういう情況を指したものだと思われる。

とあります。

《C》川西説

『畑野町史 総編』によれば、宮川もしくは三宮に至る地域に塚原があったとする説らしく、184ページに「未公表ながら佐渡考古歴史学会の指導層の中にもあり、これから先の調査研究がまたれるところである」としています。

また、『畑野町史 信仰編』148ページでは、日蓮聖人遺文の「種種御振舞御書」の「家のうしろみの家より」と「家のうしろ」の違いを指摘し、《川西説》は、『「昭和定本 日蓮聖人遺文』の「が家のうしろみの家より」を採用していること、《妙満寺説》は、「家のうしろ」を採用していることに触れています。

そして、《川西説》の場所が「小倉川左岸の川西地区」とし、「うしろみ」を採用した理由として、
「立正大学日蓮教学研究所編」の「うしろみ」とは、後見人のことであるとして、重連の不在時に留守居役として田畑の管理や流人の世話を想定したものである。」と記しています。

 

《D》根本寺の三昧堂説

現在の根本寺境内にある三昧堂とする説で『新版 日蓮と佐渡』に
1442年(嘉吉2年)に佐渡を訪れた身延山久遠寺の日朝が著した『元祖化導記』という伝記に「彼の国にては新穂郷内塚原と云う処の小堂に住み玉へり云々」(『日蓮聖人伝記集』昭和49年 西宮・妙宝寺発行)

また、『佐渡國寺社境内案内帳』(1751~1764年頃成立)
大野村 塚原山 根本寺 の欄によりますと
書き出しが「当寺身延山池上中山三ケ寺之寺之輪番所祖師日蓮  ~ 」からはじまり、要約しますと

  • (1274)日蓮聖人が鎌倉へ帰参の後 当村に正教寺を建立
  • (1587)天正15年 京都妙覚寺日典上人 当村に根本寺を開基
  • 小木町 安隆寺の旧記に、(1663)寛文3年 不受不施の再乱で正教寺と根本寺を一寺として根本寺を相続。身延山隆源院日莚上人より小木町 安隆寺九世宝源院が根本寺を兼帯(兼務)
  • (1664)寛文4年6月30日の寺社奉行所の書付に塚原正教と云う寺号がある
  • (1666)寛文6年4月、寛文9年6月と二度 京都妙覚寺より末寺の調査で慈眼院が渡海したときは根本寺と云う寺号があった。
  • (1671)寛文11年 1月23日の寺社奉行の書付に 塚原正教寺 同根本寺 御松法性寺 同実相寺 各両寺を一寺にして塚原は一宗崇敬の霊地により三ヶ所輪番所に定める。この年より両寺一寺に改まったとみられる

とあり、根本寺は京都 妙覚寺日典上人が深く関わったみたいです。

《E》やせがひら丘陵説

本間嘉晴(1989)『佐渡中世流人 日蓮と京極為兼』佐渡考古歴史学会. の 19ページから引用しますと

従来は、ほとんどの人が本間六郎左衛門の家の後ろから塚原へつれていかれたとしているが、ここで疑問は本文中の「うしろみの家より」という文はどのように解すればよいのかということである。とにかく「家」という字が二つ続いて出てくるのである。六郎左衛門の後方を見張るための家(特別建築物)とみるか、本間六郎左衛門の後見役(留守番の代官職)の家とみるのかが、まず問題となる。しかし前述「塚原」をめぐる問題のところで紹介したように『波木井殿御書』(弘安五年十月七日)には「上略、本間六郎左衛門尉が後見の家より北に、塚原と申して洛陽の蓮台野の様に死人を送る三昧原ののべにかき(垣)もなき草堂に落著ぬ。以下略」とあり、漢字で明瞭に「後見」と書いてあり、後見の家(代官職の家)より塚原につれていかれたもので、本間六郎左衛門の家から直接塚原につれていかれたものではないと理解しなければならない。しかも「後見の家より北に」と塚原の方位が記されている。こうした観点から「塚原」の位置は新しい視点に立って検討されなければならない。

と日蓮聖人遺文の叙述表現を指摘し、守護所の場所も

  1. 国府の所在や国府域址を立証するためには、その範囲内において、それを裏付ける遺構、土器類、その他の関係遺物の出土が必要である。
  2. 安国寺ははじめから安国寺村に建立されたものではないと思われる。安国寺が最初から下畑に建立されたとするには、周辺からそれを裏づける中世(鎌倉末・室町)陶質土器などの遺物の出土が必要と思われるが、そうした遺物の発見は伝えられていない。
  3. 下畑熊野神社跡、本間宮内家跡近くにあった城跡といわれるものを本間六郎左衛門重連の守護所だとか、元亨三年(1323)波多郷代官となった本間有綱の館だとするものがあるが、積極的理由や拠証はどこにもない。
    この城跡といわれるものは環濠住居の姿をとどめており(中略)この城といわれる環濠館址は十五世紀または十四世紀後半をさかのぼるものでなく、水利権をにぎった村殿級の館址とみるべきものである。
  4. こうの入道・こうの尼御前の「こう」をすべて「国府」におきかえるのではなく「江」におきかえてみるほうがよのではないかと思われる。
  5. 京極為兼が「畑という所へ、人々忍びてまかり待る」の畑は下畑地域と特定するなんらの根拠がなく、むしろ(中略)発掘調査等からみれば、後山・三宮地域における集落跡発展の状況や神寺跡分布の状況からして、当地域を想定するほうが妥当と思われる。
  6. 鎌倉幕府の任命した守護(守護代)は、国内の大番催促・軍事・諜叛・殺害人などに対する警察権をもつ大役である。もし本間六郎左衛門が守護代的性格をもって佐渡に配置されたものでるとすれば、彼は佐渡本間の棟梁たる地位にあるものであり、各地域の地頭を指揮し、佐渡一国の支配権をもったものである。新穂とか畑野下畑などといった旧國衙領の外周地に住することはおかしい。旧国衙のあった中心部の竹田台地付近に守護所をもうけ住したとみるのが最も妥当な考えと思われる。

とあり守護所は現在の佐渡市畑野ではなく、佐渡市竹田だったとしています。

本間六郎左衛門の居城(守護所)は竹田台地の本城(現妙宣寺境内)を想定し、弟で代官職をつとめた人物は東の支城(出城)の二の城(竹田城)に住し、西の支城(出城)として檀風城(通称)が築かれていたものと推定している。これらの城は本城・支城の関係をもった一連の城が前であったと考えている。(中略)
日蓮は代官職のいた二の城(竹田城)から、「やせがひら」の塚原の三昧堂につれていかれたのである。
二の城(竹田城)の東北前面の竹田川の沢(本掘沢)を渡ると東方向に高まりをしめし、合沢地内に続く丘陵地に突きあたる。この丘陵台地一帯約四~五町歩にわたる地域が、やせがひら(八瀬ヵ平)丘陵地である。

そして、圃場整備事業の際、やせがひら丘陵の北東側部から黒褐色の土壙墓跡や多くの石塔婆が発見されたり、この場所より約80m東部のやや高い丘陵地帯の水田下からも須恵器長首壺の破損したものや古銭188枚が発見されており、このようなことから
「塚原は、やせがひら丘陵の北東部地域にあった。」としています。

【波木井殿御書】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1928)
弘安5年(1282年)10月7日
(上略)
十月十日相模の依智を立て、同シキ二十八日佐渡國へ著ぬ。本間六郎左衛門尉が後見うしろみの家より北に、塚原と申て洛陽の蓮台野れんだいのの様に死人を送る三昧原ののべにかき'(垣)もなき草堂に落著おちつきぬ。夜は雪ふり風はげし。きれたる蓑を著て夜を明す。北國の習なれば、北山のみねの山をろしのはげしき風、身にしむ事をば但思やらせ給へ。彼國の守護も國主の御計ラヒなれば日蓮を怨
(中略)
此法華経は三途河にては船となり、死出しでの山にては大白牛車となり、冥途にてはともしびとなり、霊山へ参る橋也。霊山へましましてうしろらわたりどのにて尋させ給へ、必奉るべく候。
(下略)

 

 

 

塚原の場所 諸説の比較

諸説ある塚原の場所の違いをまとめてみました。

塚原の場所 提唱者等の内訳

提唱年 提唱者 参考資料 塚原の場所
根本寺説 1587年 妙覚寺日典上人 佐渡國寺社境内案内帳 現行 根本寺 境内
仙道説 1939年 橘 正隆 佐渡名勝志 註附 佐渡市栗野江 地内
妙満寺説1 1971年 佐渡史学会 日蓮と佐渡 佐渡市目黒町 地内
妙満寺説2 2004年 田中圭一 新版 日蓮と佐渡 佐渡市目黒町 地内
川西説 1985年 佐渡考古歴史学会 畑野町史 総編 佐渡市宮川 地内
八瀬ヵ平説 1989年 本間嘉晴 日蓮と京極為兼 佐渡市竹田 地内

日蓮聖人遺文の捉えかたの違い

『種種御振舞御書』内 の表現 をどう捉えるか
A「六郎左衛門が家のうしろ」
B「六郎左衛門が家のうしろみの家より」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説
A A A B B

※ 佐渡史学会が「六郎左衛門が家のうしろ」、佐渡考古歴史学会は六郎左衛門が家のうしろみの家より」と解釈したみたいです。

 

諸説の塚原の場所は、日蓮聖人遺文に適合するか?

①『法蓮抄』建治元年(1275年)
「おばな(尾花)かるかや(刈萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

 

②『種種御振舞御書』建治2年(1276年)
「塚原と申ス山野の中に」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

 

③『種種御振舞御書』建治2年(1276年)
「蓮臺野のやうに死人を捨る所」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

 

④『妙法比丘尼御返事』弘安元年(1278年)
「里より遥にへだたれる野と山との中間」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

※ 妙満寺説は守護所(里)から見渡せる範囲に塚原を設定しているため

⑤『波木井殿御書』弘安5年(1282年)
「後見の家より北に塚原」

根本寺説 仙道説 妙満寺説1 妙満寺説2 川西説 八瀬ヵ平説

※後見の家が特定できないため

 

妙満寺説1と妙満寺説2について

1971年に佐渡歴史文化シリーズの第2巻目として発行された『日蓮と佐渡』。
同書あとがきにもあるように この当時の諸先生方は橘正隆氏の影響が大きかったように思われます。それは日蓮聖人遺文「種種御振舞御書」内 の表現 を「六郎左衛門が家のうしろ」として考察したことによります。これも橘トラップだったのでしょうか?

(根本寺説に対して)
P84.「しかし歴史学的にまったく弱点だらけである。なぜなら、日典は日蓮の遺跡を探すに急だったゆえに、たとえば本間六郎左衛門の館がどこにあったか、などということはいっこうに考えるとこころではなかった。ここに決定的な弱点があった。」

P.90.「目黒町を塚原だと推定するもっとも大きい理由は、本間重連の館が波多にあって、その付近は広大な条理水田地帯で、野や山は目黒町村の丘陵部を除いてはまったく存在しないからである。

しかし、その後 1989年に本間嘉晴氏が発行した『日蓮と京極為兼』内にて
『種種御振舞御書』内 の表現 を六郎左衛門が家のうしろみの家より」や『波木井殿御書』の「本間六郎左衛門尉が後見の家より北に塚原と申て」と紹介したことにより
『日蓮と佐渡』の考察力が弱まる結果となりました。(私見)

また、このことは2007年に建立される「塚原碑」にも関連することと思われます。そして、2004年、田中圭一先生は『新版 日蓮と佐渡』を発行されました。

この1971年発行の『日蓮と佐渡』が妙満寺説1 2004年発行の『新版 日蓮と佐渡』が妙満寺説2になります。

新旧の大きな違いは、①塚原碑を意識してか画像や図を多用してわかりやすくなった。②日蓮聖人遺文の表現「六郎左衛門が家のうしろみの家より」を紹介(41頁)③日蓮聖人流罪時における合沢地区を含む雑太の国府所在地の否定(63頁)等です。

 

 

 

日蓮聖人の入滅後に 袂を分かつ お弟子様 と
橘法老がお亡くなりになった あとが

このふたつ 同じ景色に 映るるは 世の習いとて 不思議なりけり 岩生

 

 

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プロジェクト名「2021年を佐渡の大観光交流年に!」

 

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