★★ 佐渡を世界遺産に! 佐渡金銀山絵巻でみる錬金術師たち ★★

魅せられて wind is blowing from the Nichiren

真野湾

日蓮聖人の魅力はどこにあり、人々にどのように伝わったのでしょうか?

それは、日蓮聖人から風が吹いていて、その風は人々の心に届く暖かく、心地よい風のように思えます。

まるで、残雪をとかす春風のように、おだやかに沁み入ったのでしょう。

虜にさせる天賦の才

人を惹きつける、日蓮聖人の魅力。ある人はマインドコントロールとか洗脳と云い、また帰依とも云う。
そして、佐渡での出来事は決して、洗脳とかではない出来事と思われます。

Case1. 阿仏房 ご夫妻

【千日尼御前御返事】『昭和定本 日蓮聖人遺文』(第二巻P.1544)
弘安元年(1278年)7月28日
「而に日蓮佐渡國へ流されたりしかば彼の国の守護等は国主の御計に随て日蓮をあだむ。萬民は其の命に随う。念仏者.禅・律・眞言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計と申つかわし、極樂寺の良観等は武蔵前司殿の私御教書を申て、弟子に持せて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計ラヒはさてをきぬ、地頭々々等 念仏者々々々等 日蓮が庵室に晝夜に立そいてかよ(通)う人 あるをまどわさんとせめしに、阿佛房にひつ(櫃)をしおわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡國に生かわりて有か。
(略)又其故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。」
 現 代 語 訳
佐渡へ流されたら、国主(北条宣時)の指示で、本間六郎左衛門らは、日蓮を迫害した。また、島民も本間六郎左衛門の命令に従った。他宗の僧も、鎌倉へ帰さないよう画策した。すべての地頭・すべての念仏者等は、日蓮の住まいに昼夜見張を立て、日蓮と接触しようとする人を妨げようとしたのに、阿仏房におひつ(ご飯)を背負わせて、夜中に度々お訪ねなったことを、いつの世になっても忘れようか。ただ亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか。
(略)また、そのために所を追われ、あるいは科料に処せられ、あるいは家宅を取られるなどしたのに、ついに信心を貫き通された。

塚原での話と思われます。阿仏房ご夫妻は、どの時点で日蓮聖人の魅力に憑りつかれたのでしょうか?どの時点で日蓮聖人に惚れたのでしょうか?

いづれにしても 阿仏房ご夫妻は、日蓮聖人ご一行のために 人の目を避けながら食料を運び、そして、食料を運んだのが原因で、罰金や家屋を没収され、追放になったみたいです。

 

また、田中圭一(2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版.では、
阿仏房のことを、「預りたる名主」みょうしゅ)」と表現しています。

田中圭一先生は、日蓮配所の塚原の場所を、「一堂一社七かまど」の論理で「垣之内」の堂、もしくは阿仏房が”今で云う徒歩圏内”で食事を運べる距離に、塚原があるように設定しています。


『新版 日蓮と佐渡』P.65 3行目
「しかし『日蓮遺文』によれば、本間重連の館のほど近く、阿仏房が徒歩で食事を運べる範囲に日蓮が置かれた配所がある。」

 


『新版 日蓮と佐渡』P.78 11行目
「また、阿仏房の家も、この推定「塚原配所」から徒歩圏にある。そして、阿仏房が日黒町に居住していたという見方は、すでに近世以前に存在した。」

 


『新版 日蓮と佐渡』 P.88 2行目
「繰り返すようだが、他所の「在家」の者は、夜中に他人の「在家」の中にある「堂」に立ち入ることはできないであろうし、夜中に櫃を背負ってある程度の距離を歩いたりすれば人目にもつく。このようなことからして、阿仏房は日蓮を預かった「在家」の主であり、名主であると断定してよいだろう。」

それでは、①②の「徒歩で食事を運べる範囲」「徒歩圏内」とは、どのくらいの距離でしょうか?

仮に、私が阿仏房でしたら、距離は さほど関係ありません。

「この人のために、してあげたい」と思う気持ちが原動力です。KOI(恋)と同じでトランス状態です。喜ぶ顔が見れるだけで、幸せです。
人が人に惚れる状態とは理屈じゃありません。KOIに常識は通用しないのです。

私の場合、片道5㎞(トキマラソンをめざし、トレーニング中)でも問題なしです。歩く距離に比例して、心が満たされる感覚なのです。

ちなみに、【千日尼御前御返事】で日蓮は
「去る文永十一年より今年弘安元年まで既に五ヵ年間、この身延の山中にあったのに、佐渡の国より三度までも夫を遣わされた。」とあります。

阿仏房は5年間で3回も佐渡~見延 間を往復しており、
Googleマップで寺泊港・佐渡汽船乗り場~身延山久遠寺 間の距離を調べたら311㎞でした。
さすが昔の人。足腰が丈夫だったみたいです。

合わせて、に関して、当時の照明は何を使っていたのでしょうか? ロウソク? お皿の油に火をつける灯明でしょうか? ともあれ、街路灯もあるはずはなく、夜は月がでないかぎり暗く、よほどのことがないかぎり、夜は外に出ないと思います。

また、『新版 日蓮と佐渡』では、阿仏房の過料と家屋没収および追放後は、新保に阿仏房元屋敷と呼ばれる場所があるので、新保に移転したと記されています。
処罰の決定を下したのは、やはり、本間六郎左衛門でしょうか?

気になるのは、垣之内の代表者(名主みょうしゅ)が、処罰追放された場合、残された在家の方々はどうなったのでしょうか? 垣之内とは、ただ単にコミュニティの最小単位だけでしょうか?
それとも、租税制度にかかわる古代律令制における「五保」と同じような連帯責任等は、なかったのでしょうか?

Case2. 本間六郎左衛門重連

阿仏房を処罰したのは、立場上、六郎左衛門で間違いないと思いますが、処罰の時期はいつ頃なのでしょうか?

また、六郎左衛門が日蓮聖人に魅せられたのはいつ頃なのでしょうか?

本間六郎左衛門は、佐渡守護代として流人である日蓮聖人を管理、監督する立場の人間です。
あらかじめ、日蓮聖人に関することは北条宣時から予備知識としてあったはずです。

だから、佐渡島民となるべく接触しないよう、隔離するために選んだ謫居地が塚原のはずです。

それが、KOIウイルスにでも感染したかのように日蓮に魅せられてしまうのです。

 

建治2年(1276年)作といわれる【種種御振舞御書】が語る、
文永9年(1272年)の記述には、特に日蓮聖人の意思(意図?、誘導?作為?)が感じられるような気がします。
この年は、二月騒動もあり、回顧録と位置付ければ納得はできますが‥。

この遺文によりますと、


1月16日の法門対決(俗にいう塚原問答)は、本間六郎左衛門の提案になっている。
「それよりは只法門にてせめよかしと云ければ、」

 


法門対決が終わったあと、帰るべく場所を立ち去った本間六郎左衛門を、日蓮が呼び返して、日蓮と本間六郎左衛門は話をしている。

 


2月18日の夜、本間六郎左衛門は自分が鎌倉へ戻るとき、日蓮に手を合わしている。
「日蓮にたな心を合セて、たすけさせ給へ、」

上記の【種種御振舞御書】の内容ですと、Bの1月16日の法門対決終了時には、日蓮聖人はすでに本間六郎左衛門のハートをワシヅカミにしていることになりますが‥。

1月16日か否かは別として、まぎれもなく本間六郎左衛門は日蓮聖人に魅せられてしまいます。まさに、ミイラ取りがミイラになることになります。

また、本間六郎左衛門は日蓮聖人に帰依したあと、依知にある3ヶ所の屋敷を全て寺としたとの伝承が残っていて、
居住跡は神奈川県厚木市金田295の 妙純寺 とされます。

 

日蓮聖人と妙宣寺と直江兼続

『新版 日蓮と佐渡』では確認できませんでしたが、(旧版)『日蓮と佐渡』の110ページ(妙宣寺の欄)に「たしかに寺縁起にいうように、天正17年、日蓮宗の檀越であった直江兼続が雑太城地を寄進するまで、」とあります。

また、新潟県観光協会のHP にいがた観光ナビ においても 妙宣寺の説明で「京都の妙覚寺の日典聖人と親交のあった兼続が、主君上杉景勝に願って雑田本間氏の居城址を阿仏寺10世日帝に払い下げるなど、特別の保護を加えました。」とあります。

直江兼続って臨済宗だと思っていました‥。
京都妙覚寺の日典聖人って『佐渡國寺社境内案内帳』の根本寺の欄に記されている「天正十五年亥年京都妙覚寺日典上人」と同一人物ですよねぇ‥。

『新版 日蓮と佐渡』
109ページに「天正18年3月、再び佐渡に渡来した日典は、同年10月、弘樹寺のはからいによって境内に草庵を造ることができた」
210ページに「これらの文書から、日典の造った草庵が「正教寺」という寺に発展したことは間違いなさそうだ。しかし、最初から壮大な寺院が建てられたのではないし、法華宗の寺院としてその寺格を公認されたものではなかった
それは、慶長5(1600)年、上杉氏の代官・河村彦左衛門によって実施された慶長検地の検地帳に、この寺が記載されていないことで明らかである」とあります。

もしも、私が日典で、兼続とマブダチであると仮定したら、妙宣寺よりも根本寺の庇護を上杉にお願いします(狭量な岩生です)。

それにしても興味をそそられる内容です。一考の価値はあります。
誰かが、どこかで勘違いをしているように思われます。

 

歴史とは、史実の伝承ではなく、覇者の伝記です。
また、色鮮やかな3次元の物体を モノクロ画像で見るに等しく
同じ物でも見る角度や方向により
色・カタチが違ってくるのは必然であります。 岩生

 

もしも〇〇だったなら のすすめ

日蓮聖人が佐渡流罪になって佐渡に着いた日が文永8年10月28日。
西暦換算しますと1271年12月8日です。2021年がちょうど750年目となります。

もしも、あなたが日蓮聖人だったら。
もしも、あなたが本間六郎左衛門だったら。
もしも、あなたが阿仏房だったら。

2019年10月28日(月曜日)・12月8日(日曜日)。
この期間(2019年10月1日~12月31日)は「新潟県・庄内エリア デスティネーションキャンペーン」中です。
(アフターDC  2020年10月1日~12月31日)

あなたが、もしも〇〇となって、佐渡へお越しください。
現在5つ候補のある「聖地・塚原」の場所を考察してください。

あなたが佐渡の地に立ち、流人を受け入れる本間六郎左衛門の思いとシンクロしてみてください。
流人だった日蓮聖人に思いをはせ、同化してみてください。

日蓮聖人だけが知る塚原の場所を感じ取れると思います。

 

 

そして、2021年10月1日~12月31日が「佐渡 日蓮聖人キャンペーン」(NC)になればと思っております。

 

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プロジェクト名「2021年を佐渡の大観光交流年に!」

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