慶長3年蔵納目録でみる運上金ランキング
出典竹越與三郎(1920)『日本経済史 第3巻』日本経済史編纂会,
豊臣氏の領土及び之よりの収納高(慶長三年蔵納目録)
運上金 黄金山別ランキング
地区 | 黄金山名 | 領主名 | 運上額 | グラム換算 | 構成比 | |
合計 3,397枚8両1匁1分6厘 | 525,966.78 | 100% | ||||
1 | 越後 | 越後黄金山 | 上杉景勝 | 1124枚4両1匁4分2厘 | 174,056.79 | 33.09 |
2 | 佐渡 | 佐渡黄金山 | 上杉景勝 | 799枚5両1匁6厘 | 123,762.56 | 23.53 |
3 | 陸奥 | 伊達領黄金山 | 大崎少将 | 700枚 | 108,356.50 | 20.60 |
4 | 常陸 | 佐竹領黄金山 | 佐竹義宣 | 221枚7両3朱 | 34,318.05 | 6.52 |
5 | 出羽 | 最上領黄金山 | 山形出羽守 | 163枚8両4匁1分 | 25,370.71 | 4.82 |
6 | 但馬 | 但馬中瀬川黄金山 | 別所豊後・他2名 | 127枚 | 19,658.97 | 3.74 |
7 | 出羽 | 出羽庄内黄金山 | 上杉景勝 | 97枚8両8分5厘 | 15,142.12 | 2.88 |
8 | 陸奥 | 陸奥国南部領黄金山 | 南部信直 | 40枚5両5分 | 6,271.06 | 1.19 |
9 | 陸奥 | 陸奥国相馬領黄金山 | 相馬長門 | 25枚6両2匁8分5厘 | 3,973.38 | 0.76 |
10 | 甲斐 | 甲斐黄金山 | 浅野弾正 | 22枚 | 3,405.49 | 0.65 |
11 | 下野 | 下野宇都宮黄金山 | 浅野弾正 | 18枚4両3分 | 2,849.35 | 0.54 |
12 | 信濃 | 信州佐久郡黄金山 | 仙石越前 | 12枚6両 | 1,950.42 | 0.37 |
13 | 相模 | 徳川領黄金山 | 徳川家康 | 10枚 | 1,547.95 | 0.29 |
14 | 駿河 | 駿河黄金山 | 中村式部少輔 | 9枚 | 1,393.16 | 0.26 |
15 | 信濃 | 信濃伊奈郡黄金山 | 京極修理 | 8枚9両2匁1分 | 1,385.51 | 0.26 |
16 | 信濃 | 信州黄金山 | 石川玄蕃 | 6枚6両2分 | 1,022.39 | 0.19 |
17 | 越前 | 越前今荘黄金山 | 浅野弾正 | 5枚5両2匁6分 | 861.07 | 0.16 |
18 | 三河 | 三河黄金山 | 田中兵部少輔 | 2枚1両7分1厘 | 325.11 | 0.06 |
19 | 美濃 | 美濃廣瀬黄金山 | 廣瀬加兵衛 | 1枚 | 154.80 | 0.03 |
20 | 出羽 | 出羽八島分黄金山 | 浅野弾正 | 7両1分6厘 | 108.95 | 0.02 |
21 | 信濃 | 信州黄金山 | 浅野弾正 | 3両1分3厘5毛 | 46.94 | 0.01 |
「豊臣氏の収入中、金1枚は10両に値し、1両は4匁1分5厘にして※ 銀1枚は39匁なりとす」 ※ 天正小判1枚重量
表中での単位換算は下記のようにしました。
金1枚=41.5匁
1両=4.15匁
(1匁=10分=100厘=1000毛=10000朱)
1匁=3.73g
※ ウィキペディア 小判 によると、「京目(きょうめ)金一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され」※ 詳しい計算法が わかりません。
日本経済史 3巻61ページに合計が記載してある 黄金 3,397枚8両1匁1分6厘也をグラム換算すると525,966.7778gになりますが、エクセルシートに写した上記各黄金山の合計は525,961.277169gなり、約5.5g分の相違があります。
それにしても、上杉景勝の運上額の多さは、ダントツです。
世界遺産登録を目指す佐渡黄金山より、越後黄金山のほうが運上額が多いです。
この時期はまだ、相川金山は発見されてなく、主流が西三川砂金山なので当然ですが‥。
しかし、腑に落ちないのが、最後に記載してある銀の運上です‥。
運上金 領主別ランキング
領主名 | 運上高 | グラム換算(1匁=3.73g) | 構成比 | |
合計 | 3,397枚8両1匁1分6厘 | 525,966.78 | 100% | |
1 | 上杉景勝 | 2,021枚7両3匁3分3厘 | 312,961.47 | 59.5 |
2 | 大崎少将 | 700枚 | 108,356.50 | 20.6 |
3 | 佐竹義宣 | 221枚7両3朱 | 34,318.05 | 6.52 |
4 | 山形出羽守 | 163枚8両4匁1分 | 25,370.71 | 4.82 |
5 | 別所豊後・伊藤石見・岡本権兵衛 | 127枚 | 19,658.97 | 3.74 |
6 | 浅野弾正 | 46枚9両3匁1分9厘5毛 | 7,271.80 | 1.38 |
7 | 南部信直 | 40枚5両5分 | 6,271.06 | 1.19 |
8 | 相馬長門 | 25枚6両2匁8分5厘 | 3,973.38 | 0.76 |
9 | 仙石越前 | 12枚6両 | 1,950.42 | 0.37 |
10 | 徳川家康 | 10枚 | 1,547.95 | 0.29 |
11 | 中村式部少輔 | 9枚 | 1,393.16 | 0.26 |
12 | 京極修理 | 8枚9両2匁1分 | 1,385.51 | 0.26 |
13 | 石川玄蕃 | 6枚6両2分 | 1,022.39 | 0.19 |
14 | 田中兵部少輔 | 2枚1両7分1厘 | 325.11 | 0.06 |
15 | 廣瀬加兵衛 | 1枚 | 154.80 | 0.03 |
運上金 地区別ランキング
地区 | 運上額 | g(1匁=3.73g) | 構成比 | |
合計 | 3,397枚8両1匁1分6厘 | 525,966.78 | 100% | |
1 | 越後 | 1124枚4両1匁4分2厘 | 174056.79 | 16.55 |
2 | 佐渡 | 799枚5両1匁6厘 | 123762.56 | 11.77 |
3 | 陸奥 | 766枚1両3匁3分5厘 | 118600.94 | 11.27 |
4 | 出羽 | 262枚4両9分6厘 | 40621.78 | 3.86 |
5 | 常陸 | 221枚7両3朱 | 34318.05 | 3.26 |
6 | 但馬 | 127枚 | 19658.97 | 1.87 |
7 | 信濃 | 28枚4両2匁4分3厘5毛 | 4405.26 | 0.42 |
8 | 甲斐 | 22枚 | 3405.49 | 0.32 |
9 | 下野 | 18枚4両3分 | 2849.35 | 0.27 |
10 | 相模 | 10枚 | 1547.95 | 0.15 |
11 | 駿河 | 9枚 | 1393.16 | 0.13 |
12 | 越前 | 5枚5両2匁6分 | 861.07 | 0.08 |
13 | 三河 | 2枚1両7分1厘 | 325.11 | 0.03 |
14 | 美濃 | 1枚 | 154.8 | 0.01 |
慶長三年蔵納目録でみる運上額【銀子の部】
銀子の部 79,415枚7両 | |||||
地区 | 銀山名 | 領主名 | 運上額 | グラム換算 | 構成比 |
越前 | 越前北袋銀山 | 浅野弾正 | 22枚7両3匁2分 | 3,473.38 | 0.03 |
越前 | 越前府中槙谷銀山 | 京三條口又右衛門 | 360枚 | 52,369.20 | 0.45 |
中国 | (諸々銀山) | 柳澤監物 | 4,869枚 | 708,293.43 | 6.13 |
飛騨 | 飛騨銀山 | 金森法印 | 數缺 | ||
越前 | 越前国大野銀山 | 林傅右衛門 | 298枚9両 | 43,685.76 | 0.38 |
因幡 | 因幡銀山 | 宮部法印 | 9,282枚3匁6分3厘 | 1,350,266.08 | 11.69 |
但馬 | 但馬銀山 | 伊藤石見 | 62,267枚 | 9,057,980.49 | 78.4 |
摂津 | 摂津多田荘銀山 | 八島某 | 476枚 | 9,243.72 | 0.6 |
但馬 | 但馬中瀬銀山 | 四方善五郎 | 350枚 | 50,914.50 | 0.44 |
越中 | 越中銀山 | 前田肥前守 | 1,490枚 | 216,750.30 | 1.88 |
○ 合 計 | 79,415枚6両6匁8分3厘 | 11,552,976.90 | 100% |
「豊臣氏の収入中、金1枚は10両に値し、1両は4匁1分5厘にして※ 銀1枚は39匁なりとす」表中での単位換算は下記のようにしました。
【 銀1枚39匁 ・ 1匁=3.73g 】
銀1枚=10両・1両=10匁
1匁=10分=100厘
特筆すべきは、この当時、兼続のテコ入れにより、かなりの産出をあげたであろう鶴子銀山・滝沢銀山からの産銀の運上形跡は銀子の部では確認できないことです。
「佐渡金銀山を世界遺産に」が合言葉の佐渡にとって、上杉景勝の産銀の運上記録がないのは摩訶不思議なことです。
鶴子銀山、産銀の行方
産銀はすべて、景勝が占有できたのでしょうか?
秀吉と上杉の間で何かしらの密約があったのでしょうか?
上杉の佐渡攻め「佐渡天正の役」の答えとなる景勝の計略が、この慶長3年蔵納目録でみてとれます。
元は獅子ヶ城(河原田)城主、本間佐渡守高統が掌握していた鶴子銀山です。
天地人に愛はあったのでしょうか?
また、『河崎村史料編年志』によりますと
海岸近くの人々が米や銀を奪いに来て、乗組員や船頭までも はだか(無一文?無抵抗の状態?)にしました。
私(藤田丹波)は 福井県丹生郡越前町新保の港に船10隻を着け、米2,000石・他を回収しました。しかしその夜、地元の人300人位がそれを略奪しに来ました。略奪者は代官の世話人と言っていました。
略奪者の中から4~5名の女性を証人として捕り押さえ、槍や鉄砲を持たせた船の乗組員100名くらいに見張りをさせました。
このことを直江兼続が石田三成に報告したら、豊臣秀吉が人を派遣し調査後、あちらこちらの代官や、その世話人100人余りを処刑しました。
また、註釈として
「年月が不詳ながらも参考のためにここに掲載したが、文中「佐渡銀子」とあるのは、多分年貢銭のことではなく、佐渡産出の金銀の意であると思う。してみると佐渡には既に銀鉱の働きも行われていたことになりそうである。」
と記載してあります。
本の構成上「藤田丹波覚書」のタイトルがP.551の
◉文禄二年 1593 三月より、毎年砂金三駄宛伏見に納めたという。 になっておりますが
この佐渡産銀3,600貫の事案は伏見城蔵納分(年貢)ではないと橘先生はお考えです。
文禄3年の伏見城造営(指月の岡)に関する事案なのでしょうか?
佐渡産の銀6貫目入りの箱600余
佐渡産の銀 3,600貫。1貫=3.73㎏換算にしますととすると13,428㎏?
グラム換算にしますと 13,428,000gです。
ちなみに、慶長三年 蔵納目録の「銀子の部」合計がグラム換算が11,552,976gです。
(銀1枚39匁・1匁=3.73gと換算して)
銀1枚43匁換算に直しても12,737,833gですから‥。眉唾物?
どちらにせよ鶴子銀山から産出された銀と思われます。すごい量です。
さて、この佐渡産の銀はどこに行く予定でしたのでしょうか?
文面からすると、当初警護の人がいないみたいですけど、金品の輸送に際し上杉は、護衛など就けないのでしょうか?不思議です。
橘先生は否定していますが、年貢として伏見城の御金蔵の中に入る予定だったけど、銀が略奪されたため、慶長三年 蔵納目録に載らなかったみたいな‥?
でも、秀吉の指示で100名余りを処刑したとありますが、略奪された銀の回収はどうだったのでしょうか?すべて回収されたと思いますが‥。
いずれにしても、慶長三年 蔵納目録の銀子の部に上杉景勝の名前がないのは、不可解でなりません。
※ この記事は2009年1月にweb掲載したものです。公開ページ(ヤフージオシティーズ)が閉鎖されるにあたり、加筆修正しブログで再公開しました。