★★ 2019年 佐渡は HONMAの年です。★★「ホンマでっか!? 本間です年。」★★

佐渡の錬金術師たち 用語解説

用語解説(絵巻で見る金銀山佐渡の錬金術師たち)

 

あ行

【青柳割戸】(あおやぎわれと)
道遊びどうゆう割戸われとの旧名。鉱山発見の発端になったと発見伝説を持つヤマ。幕末に近い頃に道遊の割戸の呼び方が一般化したらしい。 「青柳」が地質用語なのか、人名かはわかりにくいが、「青柳隼人」という人物が上杉氏の家臣として勤務していた。「宗太夫坑」が、大久保長安の家臣の岩下惣太郎に関係した坑名と推定できるので、青柳も人名と解かしたがよいと思う(佐渡相川郷土史辞典)

 

 

【油筒】(あぶらつつ)
灯り用の油を入れる携帯容器
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油筒

 

 

【油枡】(あぶらます)
照明用の油の容積をはかる器(マス)
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油呑

 

 

石選女】(いしえりめ)
金児かなこが建てた建場小屋で、鏈石くさりいし(鉱石)の品質分け(選別)をする女性のことで、鉱山労働者の妻女が担当していました。下図は石選女が使う道具です。

 

 

【上田箸】(うえだばし)
鉱石を穿るとき、たがねを直接手で持つのではなく、箸で挟んで持つことにより、手も痛くなく、安全なため用いられていました。もっとも持ちやすい形が上田箸うえだばしとのことで、名前の由来は信州上田とか、以降上田とか諸説あります
箸とは現代でいうプライヤーのことで、鍛冶屋や床屋でも使われていました
床屋で使われてた焼箸は、焼き床が転じ「やっとこ」になったともいわれています
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上田わけ

また、たがねを挟む箸は、佐渡だけのものではなく、石見銀山では山箸(やまばし)と呼び、ハンマーのことを山鎚(やまつち)と呼んでいました。ちなみに石見の照明はサザエの殻を利用しています。
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石見銀山絵図

 

 

【請山】(うけやま)
自分山とか請負山と言います。請主(山師)が責任を持ち、産鉱を一定の配分で運上(税)として納め、一切を自己の経費と責任で払います。⇔御直山

 

 

【打替木】(うちかえき)
足場となる横木(丸木)のことで、山留大工が作り、設置していました。

 

 

【岡】(おか)
敷きに対しての語で、間歩まぶの外を岡と呼びます。

 

 

【御直山】(おじきやま
佐渡奉行所(徳川幕府)直営の間歩まぶ
のことで、直山(じきやま)とも言います。大久保長安の管理した慶長期以降は、炭・留木・たがね・紙・蝋燭などの生産資材の給付と扶養米が山師に与えられ取明時には奉行所直轄の「御手大工」らが投入されました。
採掘状況10日間ごとに克明に記録され、計画通りに採鉱されているかなど「間取り」が担当していました。
山師の収益は鉱石()の現物支給で、そのシステムを「公納鏈こうのうくさり」と呼んでいました
鎮目市左衛門の奉行(1618年〜)時代あたりから、10日毎に1/2の公納。盛山では2/3の公納。湧き水が多く排水費用のかさむ間歩まぶは1/3以下の公納でしたが、晩年には生産コストの上昇で公納鏈システムが破綻したとあります。(佐渡相川郷土史辞典)⇔請山(うけやま)

か行

【稼働】(かこう)
地下資源を掘り取ること。採掘すること。

 

 

【掛樋】(かけひ)
木製の排水用の水路。山留大工が作っていました。
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掛樋

 

 

金児】(かなこ)
山師から間歩まぶを請け負う採掘をする責任者のこと。
平たく
言うと、山師がオーナーで金児が社長みたいなもの。山師直属の者やフリーランスの金児もいました

 

 

【金穿大工】(かなほりだいく
鏈石くさりいし(鉱石)を掘る人(職人)。作業の
基本は、長さ10㎝位のたがね上田箸うえだばしではさみ、穿鎚せっとう〈ハンマー〉を振って鉱石(鏈)を穿り取っていました。
また、根入たがね(ねいれたがね)等、用途により道具は使い分けされていました。単に大工というと「金穿大工」を指します。
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鑚・穿鎚・上田帖根入鑚

 

 

 

石割矢

※石割れとは、鉱脈の割れ目に打ち込むで大きくはぎとるタガネ。
※タガネには用途によりたがねと鏨の2種類があり、たがねのほうは刃先がなまると効率が悪いため、随時交換し鍛冶小屋で再生されて使われていました。1日あたり大工一人につきたがね10本位が支給されました。刃先が鈍かったたがねの回収は鑚通穿子たがねかよいほりこ』が専用で担当しました。

金穿大工は勤務体系により分類されます。
「地大工」(じだいく)専門家。
「かけ穴大工」(かけりだいく)農閑期の臨時の者。

「差大工」(さしくみだいく)10日間の定め通りに入鉱する者
「逃げ大工」「番欠大工」10日間の定め通りに来ない者
「まだぎ大工」昼は差組大工で夜、他の間歩まぶに働きにいく者。

 

 

【叺】(かます)
わらむしろの袋。荷揚げ穿子はこれに鉱石を入れて運んでいました。かますのサイズには決まりがあり、大人用かますと子供用がありました。大人用かますは鉱石が約5貫(約19kg)入るように作られており、四ツ留番所よつどめばんしょかますのサイズを「
加勢板かせいた」で検査していました。
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叺

かますのサイズ検査で使われる「加勢板かせいた
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加勢板

 

 

【釜の口】(かまのくち)
間歩まぶ
の入口。四ツ
と同義語。

 

 

【川上家文書】(かわかみけもんじょ)
和木(両津
)の川上賢吉が大正6年(1917)、古物商にあったものを買い戻した史料で、慶長10年(1605)から同18年までの佐渡奉行所の鉱山帳簿で、鍛治炭渡帳帳・蝋燭渡帳・大久保長安への留書などである。その後、内容を熟知した識者によって、整理がなされて、現在に至る。岩下惣太夫・草間勝兵衛(内記)から、駿府にある長安の家老に向けて出された報告書が中心。文書は屏風の下張りになっていて、大小の紙片に裁断されたものを、23冊に綴られています。平成11年3月県指定文化財となる。(佐渡相川郷土史辞典)

 

 

【切山】(きりやま)
間切に同じだが、規模が小さく間数・方向も関係なく必要に応じて堀削しました。

 

 

【斤量】(きんばかり)
竿秤(さおばかり)、棒量り。
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斤量

 

 

【草見立】(くさみたて)
新しい鉱山や間歩まぶを選定すること。

 

 

【鏈】(くさり)
鉱石のことで鏈石くさりいしとも呼んでいました。3種類(上・中・下中)に選別され出荷されていました。
選別方法は、最初に坑道の採掘場で大工頭だいくかしらが「上」(金含有が豊富なものを「筋鏈」と言います)の鏈石くさりいしだけを分け、残りの鏈石くさりいしは建場小屋の石撰女いしえりめにより、「中・下中」に選別されていました。
下記画像は『金銀山大概書』によるものです。上段は「金鉱石」、中段は「銀鉱石」、下段は銅です。
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金銀山概説書

 

 

【買石】(けいし)
鉱石を買って製錬する専門業者のことで、「かい-いし」がなまり(方言)「け-いし」となりました。
買石けいし業者には3種類あり、
1.〖山買石やまけいし〗(やまけいし)坑内(間歩まぶ)の鏈石くさりいし(鉱石)を四ツ留番所よつどめばんしょで競り(購入)落とす入札権をもった業者(大・中規模業者)で、自前で勝場せりば床屋)があり、作業員(人夫、吹大工など)を雇い入れ製錬(吹分け)していました。

※ 寛永の頃、買石けいし勝場せりば床屋)だけでは間に合わず分業が進み、大床屋・小床屋・分床屋ができました。寛永19年(1642年)には、大床屋5軒・小床屋54軒・分床屋9軒の計68軒の各床屋がありました。

2.〖御器買石〗入札権のない小規模業者で、自分で川通りを流し鏈石くさりいし(鉱石)を集めたり、石撰女いしえりめから購入し製錬していました。

3.〖外吹買石そとぶきけいし〗(そとぶきけいし)鏈石くさりいし(鉱石)だけを買付け、製錬(吹分け)は床屋に外注していました。

※最盛期(慶長~寛永)には600人を数えた買石けいしですが、寛文の頃には200人、延宝8年(1680年)80人。その後、享保8年(1723年)の金銀自分吹立停止で最終的に本買石(山買石やまけいし)24人・外吹買石そとぶきけいし25人の計49人になり、宝暦3年(1753年)まで人数は変わりませんでした。
また、宝暦9年(1759年)、佐渡奉行 石谷清昌は、鉱石の不当な廉買いや金銀の密造、密売を防ぐため、奉行所構内にすべての製錬を集め、寄勝場よせせりばとして集中管理しました。

 

 

【下駄楷子】(げたばしご)
長い丸木に切込みを入れ、はしご状にしたもの。比較的狭い坑内で使用されました。丸木のはしご。
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下駄ばしご

 

【煙貫】(けむりぬき)
排煙や通気のために掘る坑道。

 

 

【間切】(けんぎり)
試掘で鉱脈を探る坑道。間数を定めて請負いさせているところから出た名。

 

 

【坑道掘り】(こうどうぼり)
文禄4年(1595年)秀吉の天下統一のもと、石見国より、石見忠左衛門・同弟の忠次郎・石田忠兵衛の3名が招かれ、当時の先端技術であった坑道掘り(安全対策を施したトンネル工法と測量技術)や灰吹法が佐渡に伝わりました。

 

 

【公納鏈】(こうのうくさり)
簡単に言うと、山師は奉行所に手数料を支払うことにより、奉行所が管轄する御直山間歩まぶを採掘する権利を与えられました。両者の取り決めにより、採掘した鏈(鉱石)の幾割かを、山師は手数料(税金)として、奉行所に鉱石()を納めいていました。その現物支給システムを「公納鏈こうのうくり」とか「荷分にわけ」と呼んでいました。
そして、このシステムは、時代とともに内容が変わっていきます。
その変遷をざっくり説明しますと

(1)奉行 田中清六の時代(1601~1603/慶長6~慶長8年)
10日間ごとに請負の運上額を入札させ、その高値をつけた山師が採掘していました。
しかし、山師は短期間での成果を求めるあまり、良坑と思われても一旦水がためれば、水抜きを掘る作業は行わず、その間歩まぶは放棄されました。
(2)奉行 大久保長安の時代(1603~1613/慶長8~慶長18年 )
山師へ採掘必需物資の供給
筵・蝋燭・鍛冶炭・たがね・鉄・玄能・はさみ・銀包紙・帳紙・桐油・牛皮など、採掘に必要な物資を提供し、山師は1年間を単位として山を稼げるようになりました。
この供給した物資費用の精算方法は、10日間単位で採掘した鏈石くさりいし(鉱石)の1荷(5貫)分を奉行所管轄の床屋で「問吹き」し、その1荷の銀含有量を確定し、銀含有量の1割程度を10日間で採掘した鏈石くさりいし(鉱石)の数量(1荷単位)で掛けた重量の銀を運上させていました。

〈 ※例 10日間で鉱石が50荷採掘され、その内の1荷の銀含有量を奉行所が調べたら、銀が200gあったとした場合、50荷×20g=1,000gで 山師は1㎏ の銀を運上しなければなりません〉

➁運上銀の他に荷分けの義務
田中清六時代に水没した間歩まぶや、採鉱中の間歩まぶの排水のため、お抱えの大工を雇い 大工町に住まわせ、御直山の水抜き工事を行いました。このことにより採掘量も増えました。
また、一つの間歩まぶの水抜きをすると、隣接する間歩まぶも水が引くことがあり、この水が引いた間歩まぶ御直山となり、荷分けの義務が発生しました。この大工(水抜きや山留を担当)投入や必需物資の供給の恩恵を享受する見返りとして、採掘した鏈石くさりいし(鉱石)を「荷分け」と称して、奉行所分と山師分に分けました。
(この時代は一定の比率がなく、奉行所と山師との談合でおこなっていました。)

『佐渡相川の歴史 資料集3(川上家文書)』301ページに、1613年(慶長18)の「問吹といぶき」の値と採掘量が記されています。
問吹といぶき」とは、「様吹ためしぶき」とも言われ、鏈石くさりいし(鉱石) 一荷(5貫・18.75㎏)あたりに銀や金が、どの位(重量)含まれているかを製錬して調べる検査で、おもに奉行所がおこなっていました。

《「問吹き」の値》
向山但馬横相(山主 味方但馬)銀55匁・筋5分
弥次兵衛之内より横相寄合敷(山主 佐野庄右衛門・味方但馬)銀127匁・筋なし
向山江戸庄右衛門間歩まぶ(山主 江戸庄右衛門)銀51匁・筋5分
丑ノ正月十六日より同弐月十八日まて分也
銀1貫272匁・筋7匁4分(1613年 慶長18年1月16日~33日間分の合計)

《採掘量》
丑弐月初十日分(1613年 慶長18年2月の10日分)
鏈131荷・采女平越中徳衛門間歩まぶ(山主 播磨弥三衛門)
鏈100荷・下松平清八間歩まぶ(山主 京孫左衛門)
鏈115荷・采女平茂庵間歩まぶ(山主 越中次郎兵衛)
鏈159荷・向山江戸庄右衛門間歩まぶ(山主 江戸庄右衛門)
鏈541荷・向山弥次兵衛間歩まぶ(山主 味方但馬・佐ノ庄右衛門)
鏈135荷・向山但馬横相(山主 味方但馬)
鏈180荷・向山鳥越源左衛門間歩まぶ(山主 矢田太兵衛)

この年は、大久保長安が6月に この世を去り、だんだん深くなる坑道に排水対策が機能しなくなり、「荷分け」(公納)が免除された年と言われています。
それでも2月初の10日間に1,361荷の鉱石が掘り出されています。重量にして25トン以上の鉱石量です。大久保長安が山師に迫った「荷分け」の比率はどの位だったのでしょうか。

※ 大久保長安の時代に「運上」と「荷分け」の仕組みがうまれました。

(3)奉行 田辺十郎左衛門の時代(1613~1617/慶長18~元和3年)
「荷分け」(公納)の比率は基本 1/2 (50%)で、出水のある間歩まぶは1/3 の鏈石くさりいし(鉱石)を後納。
(物資代も借用して鉱石が出たら精算していました)
しかし、1616年(元和2)に山師は江戸に訴えを起こしています。公納50%では、山師の経営が成り立たなかったのでしょうか。

(4)奉行 鎮目市左衛門の時代(1618~1627/元和3~寛永4年)
「荷分け」(公納)の比率は、千荷以下が4分の一(1/4)、千荷以上は3分の一(1/3)の公納。
また、御直山の大工に、一人につき銀100匁を山師の保証で貸出したり、山師自身にも銀を貸出したり、山師を保護しました。

結果、採掘量は改善され、1619年(元和4)に 味方但馬が割間歩わりまぶに「寸法樋すぽんどい」(スポイトの原理)をとりつけ、水を汲み上げ 10日間に2万荷を掘り出したとあります。
(20,000荷×5貫×3.75㎏=375トン)

 

【鉱脈・鉱床】(こうみゃく・こうしょう)
鉱脈のことを「立合」とか「立合石」と呼んでいました。
太古の火山活動の際、マグマの高温で生じた熱水(鉱液)こうえきは、その高い蒸気圧によって地表へ向って上昇します。この場合 熱水(鉱液)の通路となるのは断層や裂け目・割れ目で、熱水は通路の岩石と反応し組成を変化しながら上昇します。とくに熱水が反応しやすい岩石や地下水と遭遇すれば急激な化学変化や温度・圧力の低下が起り、鉱物が急速に沈殿します。鉱物の沈殿は、このような岩盤の割れ目等のすき間で生じます。このような現象で多くの鉱液が結晶し、やがて割れ目が満たされ鉱脈になります。この熱水作用による金属の濃集で生じた鉱床を「熱水鉱床」とか「鉱脈鉱床」といいます。

鉱液の温度と産出される元素に相関関係がみられ、大まかに分類されます。
深熱水性鉱脈(300~550℃)スズ・タングステン・モリブデン
中熱水性鉱脈(200~350℃)銅・鉛・亜鉛
浅熱水性鉱脈(100~250℃)金・銀

深~中熱水性鉱脈は比較的粗粒の鉱物が隙間なく充填していますが、浅熱水性鉱脈は細粒の鉱物から構成され縞状の累被構造を呈し、鉱脈内に空隙(晶洞)を伴うことが多いそうです。

また、「鉱脈鉱床」に対し、西三川砂金山の鉱床を「漂砂ひょうさ鉱床」といいます。

 

さ 行

【水上輪】(すいじょうりん)
坑内の排水装置。アルキメディアン・スクリュー
佐渡奉行所の記録を編年体にまとめた『佐渡年代記』の1637年(寛永14年)の欄によりますと、『味方但馬が仕立てたスポイトの原理を利用した「寸法樋」(すぽんどい)を便利に使ってたが、大阪の「水学宗甫(すいがくそうほ)」(初名は木原佐助)という盲人が「龍樋」の作り方を籠坂の番匠「忠右衛門勘兵衛太良左衛門」(3名?)に教え、南沢の妙輪寺下の滝で寸法樋と龍樋の性能を比較したところ龍樋が優れているので龍樋を使った』とあります。
この龍樋が水上輪と思われます。しかし、水学宗甫を招聘したのは誰なのでしょうか?『佐渡年代記』をみるに1653年のこの時、 佐渡奉行の伊丹康勝は江戸に居たように思われます。
また、佐渡年代記の承応2年(1653年)の欄には味方次郎の要請で佐渡奉行の伊丹順齋(康勝)が指示し味方次郎が水学宗甫を呼び水上輪を導入したとあります。16年の隔たりは大きいですが、奉行も絡んだ内容で一件落着です。
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佐渡年代記

佐渡年代記 寛永14年(1637年)

石見銀山(寸法樋)

石見銀山 排水装置(寸方樋)

 

 

 

 

 

 

 

 

【敷】(しき)
間歩まぶの中の個々の採掘場所や採掘坑。⇔岡

 

 

【紙燭】(ししょく)
たいまつの一種。桧を薄く削って縄状にし、棒の先端に巻き付け油をしみ込ませたもの。絵巻中に「紙屋」という紙燭を作る仕事が描かれています。
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紙種

 

 

【杓子】(しゃくし)
鉱石などを集めたりする道具。採掘現場で使うものを「丁場杓子」と呼びました。
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丁場原則子

 

 

【十文字間切】(じゅうもじけんぎり)
試掘の跡らしいですが、誰が何のために掘ったのでしょうか?図面にも描かれています。本当にあるのでしょうか?
『佐渡金銀山絵巻 絵巻が語る鉱山史』や『日本の鉱山文化 絵図が語る暮らしと技術』の書籍内で確認できる、「十文字」がある絵巻は下記の5巻です。
①「佐渡国金銀山図」(新潟県立歴史博物館)
②「銀山勝場稼方諸図」(新潟県立歴史博物館)
③「佐渡の国金堀ノ巻」(相川郷土博物館)
④「金銀山絵巻(石井夏海画)」(相川郷土博物館)
その他、webで確認できるのが
⑤「鉱山働方之図」(秋田大学附属図書館)
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「佐渡礦山坑内略図 [水道之訳]」
※ 秋田大学 鉱山絵図・絵巻デジタルギャラリー
佐渡礦山坑内略図[水道之訳]

 

 

【炭廻し桶】(すみまわしおけ)
おけ
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炭廻し桶

 

 

【ずり】
金銀の鉱石を採取する際にでる鉱石にならない岩石や不要な鉱物のこと。

 

 

【製錬】(せいれん)
鉱石から目的とする金属を分離・抽出し、精製して鋳造・鍛造・圧延用の地金とすること。

 

 

【勝場】(せりば)
江戸時代の製錬所で、鉱石を砕き淘汰して製錬するところ。これを生業とするものを買石と言いました。床屋と同義語で、大床屋・小床屋・分床屋と分業が進みました。
大床屋=主として搗砕(つきくだき)淘汰して製錬する所。
小床屋=主として淘汰を終えた砂鉱を製錬して金銀塊となす所。
分床屋=銀塊から、さらに金を分析して回収する所
※寛永19年(1642年)には、大床屋5軒・小床屋54軒・分床屋9軒の計68軒の床屋がありました。(佐渡相川郷土史辞典)

 

た 行

【大工】(だいく)
職人(鉱山で働く)のことで、金穿大工や山留大工などと呼ばれました。絵巻中、吹大工・灰吹大工、分大工、延金大工の文字がみられます。
この大工という呼称は、急速に発展する鉱山の職人確保で重要な意味合いを持ち、鉱山関係以外の職人とは区別されていました。(木造建築の職人は番匠ばんじょうと言いました)
(のちの解釈で、大工というと、金穿大工を指す言葉になったみたいです)

 

 

【立合】(たてあい)
盾合とも書きます。鉱脈のこと。相川金銀山では石英脈に金銀鉱が含まれているので「白立合」と言いました。

 

 

【釣ともし】(つりともし)  「ともし」は漢字で「灯し」
金属製の簡易ランプ。ただ単に釣(鉤)ともいう。棒の先端と油皿とのつなぎ目が自在継手となっており、油がこぼれにくく扱いやすい。
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釣りともし

 

 

【鉉】(つる)
鉱脈や鉱石のことで、これに掘り当たるとことを「鉉につく」と言いました。

 

 

【釣瓶】(つるべ)
滑車のことを車輪と呼んでいました。
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つるべ

 

 

【てへん】(てへん)
和紙をこよりにして編んだ当時のヘルメット。護符もこよりにして編み込んであり、役人や山師のみ着用が許されました。※ 絵巻内では山留大工も着用しています。
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てへん

 

 

【樋引】(といびき)
水上輪のハンドルを回す係の作業員(人足)

 

 

【床屋】(とこや)
製錬する設備を持った場所。勝場せりばと同義語。大床屋・小床屋・分床屋と分業が進みました。
大床屋=主として搗砕(つきくだき)淘汰して製錬する所。
小床屋=主として淘汰を終えた砂鉱を製錬して金銀塊となす所。
分床屋=銀塊から、さらに金を分析して回収する所。
※寛永19年(1642年)には、大床屋5軒・小床屋54軒・分床屋9軒の計68軒の床屋がありました。(佐渡相川郷土史辞典)

 

 

【取明】(とりあけ)
崩落して閉塞した坑道を取り明けて坑道を作り直すこと。

 

な 行

【荷揚穿子】(にあげほりこ)
鉱石を運ぶ作業員(人足)。かますに鏈(鉱石)を入れ、背中に背負って運びました。

 

 

【荷杖】(につえ)
かますに入った鉱石を運搬中に使う杖で。小休止するときにこの杖を荷の下に縦に置き持ち、杖の片方を地面につけ、荷の重量を分散して使います。カシやナラなどの堅木の杖の先端に荷をのせる皿状の木を取り付けてあります。長さはその人の身長により調整されましたが、約80cm位の杖です。
荷杖

 

 

 

【入札箱 大工・穿子用】(にゅうさつばこ だいく・ほりこよう)
昼夜を問わず稼働していた採掘作業、そのセキュリティ-チェックの一環として行われていました。金穿大工や穿子ほりこは、四ツ留番所よつどめばんしょで氏名等を報告し、鑑札を受けとったのち坑内に入れました。また、坑内出入口にある横引場でも鑑札を確認していました。
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入金箱

 

 

【荷分け】(にわけ) ⇒ 公納鏈こうのうくり

 

 

【祢古ノ子】(ねこのこ)
勝場せりば」内の「ねこ場」で雑用に従事する人で、「ねこ流し」の水を汲み入れたり、木綿布を打込桶に入れたりする係です。買石けいし(製錬業者)が、鏈石くさりいし(鉱石)を買付けに行くときも、雑用係として同行しました。

 

 

は 行

【灰吹法】(はいぶきほう)
鉛を使用した製錬法で、佐渡へは文禄4年(1595年)に石見銀山の技術者よりもたらされました。

 

灰吹銀・灰吹銀・筋金・上納延金の拓本
(田中圭一『佐渡金銀山の史的研究』刀水書房1986年より転載)
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灰吹銀・金の拓本

 

 

【羽口屋】(はぐちや)

 

 

【ひ押し堀り】(ひおしぼり)
露頭掘りで地中に掘り進んでいく採掘方法。

 

 

【吹分け】(ふきわけ)
鉱石を溶解し、含有物を分離すること。

 

 

【鞴】(ふいご)
床屋・吹所で精錬するときに、炉の温度を上げるために風を送る装置で吹車とも呼びました。
炉に面する空気の送風口(土管)を「羽口(はぐち)」と言い、羽口を専属に作る羽口屋がいました。
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ふいご

 

 

【歩溜筵】
歩溜

 

 

 

【振矩師】(ふりがねし)
鉱山の測量技師。

 

 

【穿子】(ほりこ)
大工の手伝いや、荷役などの力仕事など単純作業をする作業員(人足にんそく) のことで、職務を細分化することにより効率化をはかりました。
鉱石を運び出す「荷揚穿子にあげほりこ」や山留大工を手伝う「手伝穿子ほりこ」「丁場穿子ほりこ」、タガネを回収する「鑚通穿子たがねかよいほりこなど、様々な穿子ほりこ(作業員)がいました。

 

ま 行

【間歩】(まぶ)
文禄4年(1595年)から石見銀山からの技術導入で坑道掘こうどうぼり(トンネル掘り)が普及すると、一つの坑を単位として請山での採堀さいくつがおこなわれ、その坑を間歩まぶといった。間歩まぶは人(山師)の名前がついたものが多い。

間歩まぶ」と「敷」(しき)
1つの坑口から広がる採掘域全体を1つの単位として間歩まぶと呼び、間歩まぶの中の個々の採掘場所や採掘坑をと言いました。

 

相川金銀山の間歩位置
(相川郷土博物館『佐渡の金銀山 開館四十周年記念特別展報告書2』より転載)
(画像をクリックすると拡大表示します 339KB  8385×5397ピクセル)
相川金銀山の間歩位置

 

 

や 行

【矢立】(やたて)
筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具。
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矢立

 

 

【山師】(やまし)
山主・山仕ともいう。山や間歩まぶの所有者(オーナー)として、大工穿子ほりこ・山留師や振矩師ふりがねし等を従えていました。
請山制でリスクもありましたが莫大な利益を生む山師もあらわれ、味方但馬のように、いくつかの地域の鉱山を経営する者もいました。
このことより転じ「投機的な事業で大もうけをねらう人。投機師。そして 、詐欺師。いかさま師。」の意味で使われるようにもなりました。

 

 

【山留】(やまどめ)
坑内の崩落防止や打替木などの足場作りのことで、木や石を使い処置を施した。処置をする人を「山留大工」といい、奉行所直属の職人で賃金などの処遇も優遇されていました。
山留大工の仕事の種類や技法は多岐にわたり、間歩まぶ入口の「釜ノ口四つ留」や「下駄楷子」崩落防止の「合掌」、水替えの「四つ枠せいろ」、排水の「掛樋」などがあります。したがいまして、使う道具もいろいろありました。
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山留道具1山留道具2

 

 

 

 

 

 

 

 

【やわらぎ】
大山祇神社で行われる神事で、岩がやわらいで掘りやすくなることを願い、それを感謝したことが原形です。

 

 

 

【寄勝場】(よせせりば)
宝暦9年(1759)に、金銀山一件を奉行所支配にする改革がありました。それまでは買石の居宅に勝場せりばがあり、

 

 

【四ツ留】(よつどめ)
釜の口と同義語で、間歩まぶの入り口を指します。石見銀山より伝わった言葉で、間歩まぶの入口に置かれた番所を「四ツ留番所よつどめばんしょ」と言い、鉱石の盗難や抜き売り等を監視しました。

 

 

【四ツ留番所】(よつどめばんしょ)
御直山の各間歩まぶ(坑内)の入口に置かれた番所のことです。

御直山の数は、鎮目市左衛門が佐渡奉行となり、改革した元和8年(1622年)の史料には15~16ヶ所あったと伝えられています。
佐渡年代記は16ヶ所。(場所の記載なし)
佐渡年代記略(佐渡風土記の写本)は15ヶ所。
「向山山之下・瀧下・中使澤・六拾枚向イ・間山古口水貫・諏訪間歩まぶ・下松日向平・関原横相煙貫・大津・中山日向平・岩崎・左澤川上市之瀬・向山遊白・鶴子御直山左兵衛間歩まぶ・向山中尾」

また、国立古文書館デジタルアーカイブの絵巻「佐渡金山金堀之図」には、「甚五間歩まぶ番所・弥平間歩まぶ番所・割弓番所・中尾番所・大切山間歩まぶ番所・青盤間歩まぶ番所・鳥越間歩まぶ番所・市ノ勢間歩まぶ番所」の8ヶ所の番所が描かれています。

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佐渡年代記記元和8年

佐渡年代記略元和8年

佐渡年代記宝暦3年

佐渡年代記宝暦3年2

 

 

 

 

※ 左より 佐渡年代記(元和8年)・佐渡年代記略(元和8年)・佐渡年代記(宝暦8年1)・佐渡年代記(宝暦8年2)

また、宝暦3年(1753年)の代官制の施行で 2名の代官が赴任し、代官 横尾六右衛門 に管理移譲する役人名が佐渡年代記に記されており、そこで確認できる番所名は「青盤番所・清次番所・鳥越番所・中尾番所・陣五番所・間山口番所」の6ヶ所です。
宝暦3年(1753年)には、御直山が6ヶ所しかなかったのでしょうか?

 

 

 

ら 行

【露頭掘り】(ろとうぼり
鉱脈が露出した部分(露頭)に沿って鉱脈だけを掘り採る古い採掘方法。佐渡では文禄4年(1595年)以前の技術で1595年
石見銀山より坑道掘りの技術が佐渡に入りました。

 

 

わ行