★★ 2019年 佐渡は HONMAの年です。★★「ホンマでっか!? 本間です年。」★★

天地人と佐渡の考察(佐渡金銀山を世界遺産に)

証人(制札)にみる天地人 佐渡天正の役の考察

ー 上杉景勝と直江兼続が佐渡にしたこと ー

今からちょうど430年前の天正17年6月12日。

彼らが 佐渡に やって来ます。

河原田城 攻防の謎(通説との相違)

佐渡天正の役(上杉佐渡攻め)の通説を要約しますと

当時、佐渡を二分する戦いが続いていました。
国府川を挟んで北側(大佐渡山脈側)が、河原田城主 本間高統 率いる河原田勢。
南側(小佐渡山脈・本土側)が羽茂城主 本間高貞 率いる羽茂勢です。

南北の長い戦いが続く中、景勝は何度となく和睦を勧告しましたが、不調におわり
1589年(天正17年)の佐渡攻めを迎えました。

手引きしたのが沢根城主 本間左馬助です。
1589年(天正17年)5月30日に先遣隊300余艘が上陸ました。

残りの上杉軍(景勝・兼続)の1000余艘は6月12日の夜を待って
須川から米郷・稲鯨の湊に上陸します。

翌13日に河原田城を攻略します。15日、国府川南側(四日町付近)にて攻防があり。
6月16日に羽茂城を攻略し、佐渡平定を成し遂げました。

上記が、佐渡天正の役(上杉佐渡攻め)の通説です。

 

たしかに、撮要年代記に「沢根城主の秘策で夜中に入り着岸」、
佐渡風土記に「稲鯨二見浦へ船をよせ…誰知るものなかりけり」等あります。

しかし、台ヶ鼻から米郷方面の海岸線は外海になり、地形的にも岩場が多く、幾ら沢根の誘導があったとしても騎馬のことも考えれば…。まして夜間の上陸地には…。

いまいち、しっくりきません。

 

7つの制札が意味するもの

上杉軍が佐渡天正の役(佐渡攻め)で発給した制札が7札あり、史料で確認できます。

制札とは

戦のあと勝者の軍勢が発給するもので、平たく言えば制札をもらうことにより、その地区の安全を保証する安全保障証で、基本的に村々が自らを守るために手に入れるもので、有料であったといいます。

佐渡で発給された制札を訳しますと
「上杉軍の兵士に申し渡す。この地において、人や物を略奪する事、人に危害を加える事、田畑の作物を荒らす事、村家に火を付ける事、竹や木を伐採する事を禁止した。もし、違反するような人々がいれば、ただちに処罰する。上杉軍奉行より。」 となります。

 

妙宣寺 制札国分寺 制札引田部神社 制札
①妙宣寺②国分寺③引田部神社
慶宮寺 制札目黒町 制札宿根木 制札
④慶宮寺⑤目黒町⑥宿根木
   
妙経寺 制札景勝 朱印
⑦妙経寺上杉景勝の御朱印印文「タラーク虚空蔵龍」 

【種字】
「タラーク」(虚空蔵菩薩 こくうぞうぼさつ)

種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。種子真言(しゅじしんごん)ともいう。また、これを梵字で表記したものは種子字(しゅじじ)と言う。また種字(しゅじ)とも略称し、一般にはこの「種字」という表記が多用される。これは通常一文字で表記される。
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されています。

さて、本題にもどりますが

ここで、注目すべきは点は、各制札の左側の御朱印下の日付の文字列です。以下に並べてみました。

①妙宣寺制札  「天正十七年六月 日 奉行中」

②国分寺制札  「天正十七年六月 日 奉行中」

③引田部神社制札「天正十七年六月 日 奉行中」

④慶宮寺制札  「天正十七年六月 日 奉行中」

⑤目黒町制札  「天正十七年六月 日 奉行中」

⑥宿根木制札  「天正十七年六月 日 奉行中」

⑦妙経寺制札  「天正十七年月 日 奉行中」

①から⑥までの制札は、6月なのに、⑦の妙経寺に残る制札だけ7月です。

妙経寺の住所は佐渡市中原368です。河原田城(獅子ヶ城)まで、直線距離にして600m弱です。
6月13日に河原田城を攻略したとあるのに、河原田に残る制札だけ 7月なのは、なぜでしょうか?

 

 

京都大学総合博物館所蔵の景勝文書

『上越市史 別編2(上杉文書集2)』の586ページに、京都大学総合博物館所蔵の景勝文書が記載してあります。景勝が天正17年7月15日にしたためたとされるもので、同年7月7日にあった河原田の戦いで、功労した信濃衆の松本左馬助にわざわざ感状(感謝状)を送付しています。、文面は下記の通りです。

如注進者、其元着岸以来日々
敵地押詰相動之由、劬労無是非
就中去七日於河原田表遂一戦、
敵数多討捕、得勝利之由、喜悦、
弥一功有之様可相稼事専一、
謹言、
七月十五日        景勝(花押)
松本左馬助殿

『上越市史 通史編2』では
「翌7日には河原田表で一戦あり、勝利を得て、佐渡を制圧した。」と説明しいます。

 

景勝文書と妙経寺制札の符合

また、『新潟県史 資料編5』P.873でもこのことを伝えております。

 

また、景勝は、松本左馬助の他に栗田永寿にも感状をしたためています。

天正17年7月15日付けの景勝が栗田永寿に宛てた感状
 如注進者、其地着岸以降毎日至敵地相働之由、労身無是非候、殊以去七日於河原田表遂一戦、敵数多討取之、得勝利之趣、欣悦候、弥々一功有之様可相稼事、肝要候、謹言
 七月十五日        景勝  
 栗田永寿        
  参      
 
『信濃資料第十七巻所収/上越市史別編2』

妙経寺 制札

二宮村教育会(1938)『二宮村志』から転載(河原田・妙経寺の天正17年7月 日付の制札)

 

2通の景勝書状と妙経寺の制札が指し示すこと、それは、

河原田城の攻略(陥落)は6月13日ではなく、天正17年7月7日である。ということです。

そして、このことは上杉景勝と直江兼続による、用意周到に計画された戦術(策略)によるもので、河原田の高統は6月12日に上杉軍が上陸するのを、好意的に既に知っていたと思われます。

佐渡平定のシナリオ

天正17年6月12日の景勝・兼続が佐渡へ来る日を、沢根城主と潟上城主だけではなく、河原田城主の本間高統も知っていたとしたら、それも好意的に知っていたと考えれば絡まった糸がほどけてくるのです。

1584年(天正12年)頃から近隣の金銀山を手中に収めたいと画策していた景勝・兼続にとって、佐渡を南北に分ける戦いが続くのは、千載一遇のチャンスでした。

西三川砂金山を領有し台頭する南勢との果てることのない、いざこざ。「国中一統相静まれ…」の和睦勧説の景勝書状を読んだ劣勢の高統は、景勝のことをどんなに心強い存在と感じたことでありましょうか。天正13年・2回目の後藤左京入道の派遣以降は、和睦よりも羽茂攻略に心が動いたのではないでしょうか?

年が移り、天正17年4月富永備中守と左馬助が河原田 高統に羽茂攻略の打ち合わせに出向き、「根本人羽茂三州一類」の図式が整ったと思われます。

そして、1589年(天正17年)6月12日、何はばかることなく威風堂々と大挙して来る景勝船団を沢根湊で迎えた中に高統の姿もあったはずです。

提携と密約

『新潟県史通史編2』によれば、天正10年(1582年)の冬、秀吉は、須田満親を介し景勝に提携を申し入れており、翌11年に景勝は秀吉と連携をはかる誓書を取り交わしております。

また、天正12年(1584年)8月16日の増田長盛と石田三成の連署状(兼続宛の覚書)に
「 …一、出羽・奥州・佐州之儀 景勝様御取次之段 先度如被申談候たるへき事。… 」 と『上越市史別編2』に記載があり、この頃より景勝・兼続が佐渡・出羽の領有について秀吉に働き掛けを行っていることがみてとれます。

そして、6日後の8月22日に景勝は河原田・本間山城守宛に「国中一統相静まられ」と佐渡南北の和睦状をしたためています。
(羽茂と河原田の争いがまだおさまっていないようなので、助言のため使者を送ります。お互いの立場をよく聞き、島内一統が平和に以前のように仲よくすることを望みます。後藤入道より口上で詳しく申し上げます。)

その差6日間のインターバル。当時の郵便事情を考えると、兼続宛の連署が届いてすぐ、
これぞ佐渡を領有する千載一遇のチャンスとばかりに、行動に移したと考えられます。

したがいまして、景勝・兼続にとって和睦の意味、後藤左京入道を佐渡へ派遣する真意は他にあったと思われます。

この頃すでに、佐渡側では工作が奏したのか、潟上本間、久地本間、沢根本間なと上杉の軍門に下る城主が多いです。多分、河原田本間も1584年の後藤左京入道の工作により、景勝の軍門に下りていたと推察されます。
(1回目は河原田の篭絡、2回目は羽茂の篭絡に成功しています。恐るべし左京入道) 誰が考えれも、力の差は歴然です。秀吉=景勝に対し、どんな武将でさえ、敵うわけがありません。
この状況下で、軍門に下りず、逆らう者などいるはずがありません。

 

河崎村史料編年志で紹介している竹越與三郎氏が1920年に刊行した「日本経済史第3巻」に「豊臣氏の領土及び之よりの収納高(慶長三年蔵納目録)」が記載されています。

米2,005,719石・黄金3,397枚8両1匁1分6厘・銀子79,415枚7両・金銀諸役運上分、金子1,002枚 銀子13,950枚」とあります。

黄金の部の内訳に、佐渡黄金山1124枚4両1匁4分2厘を含め上杉景勝の名前があります。
しかし、銀子の部に景勝の名前はでてきません。

当時、兼続が青柳隼人以下椎野与市・須賀修理亮に命じ、かなりの発展をとげたであろう鶴子や滝沢(新穂)銀山からの産銀の運上形跡が見当たりません。

産銀をすべて景勝が占有したとは考えられません。
しかし、秀吉・三成と景勝・兼続との間で天正11、12年頃より佐渡(出羽も含め)の景勝領有時における産金銀の運上(分配)に関する話題があり、1586年(天正14年)景勝の上洛により産金銀の運上(分配)に関する密約が成立したと考えるのが妥当ではないでしょうか。

天正14年6月23日、景勝・兼続は一安心したことでしょう。
それは、秀吉に臣従した結果、秀吉から佐渡平定の命令書を賜ったからです。

言い換えれば、日本海に浮かぶ孤島・佐渡の領有権は秀吉政権のもと、上杉以外の誰も(利家など)手はつけられないとなったからです。これで武力的に歴然と差のある佐渡本間の平定はいつでも良いと安心したのでありましょう。

しかし、2年後の1588年(天正16年)8月23日、景勝は再上洛を終えた帰国途中に、またも後藤左京入道を佐渡に派遣しています。秀吉から運上の催促でも受けたのでしょうか。

この再上洛時に産金の上納が確立したと推察されます。

景勝・兼続の佐渡侵攻の目的は、金銀山の占有にありました。
謙信亡きあと、春日山の御金蔵に保管してある金銀をみればそう思うのも当然でしょう。
要するに西三川砂金山を領有する羽茂・高貞、鶴子銀山を領有する沢根・左馬助、新穂銀山を領有する潟上・帰本斎の3領主が景勝に平伏するか、軍門に降りれば済む話です。あらゆる手立てを講じ、結果的に羽茂以外の沢根と潟上(高統を含む河原田勢の城主)は手中におさめることができたのです。

兼続は、左馬助と帰本斎にどんな飴を見せたのでしょうか。三者の間にも何かしらの密約があったと思われます。

ゆさぶり

1586年(天正14年)7月17日付の景勝が久地・与十郎に宛てた書簡に
「いよいよ今度佐渡一円を当方へ渡すことになったので潟上や河原田に春日山へ出てくるように申しつけた。其方はこれまで忠信を尽くしてきているので渡海してあいさつに来るものと思う。… 潟上や河原田が出てこないならば、討果す所存である」とあります。

再三にわたる後藤左京入道の渡海(天正13年3月7日/上杉家御年譜・天正16年8月23日/新潟県史通史編2)。飴とムチを使い分けた兼続の巧みな戦略が見えてきます。

後藤左京入道の渡海の最大目的は、佐渡の的確な情報収集と心理戦にあったと推察されます。佐渡侵攻を視野に入れると、羽茂と河原田との間で和議に話が進み、佐渡が一つになることのほうが不都合であるからです。

河原田 高統の落とし所は何だったのでしょうか。佐渡守の威信、プライド。いずれにしても敵対する羽茂の芽は摘まれ、上杉傘下での佐渡支配の夢を描かせたに違いありません。

景勝・兼続の佐渡侵攻を前年に控えた1588年(天正16年)11月28日、羽茂対馬守高季が、景勝・兼続宛てに、返書をしたためています。河原田と和睦の件を答報したもので

  御貴札之趣拝見、欣悦至極奉存候、仍而当国和睦之段被仰下候、拙者一門各奉存其旨、雖古今之欝憤候、抛諸事可任御上意候処、敵方河原田・吉井・潟上被背御尊意、承引不被申事、全拙夫非疎略候。然而御貴州弥以御繁昌之由珍重存候、委曲直江山城守へ申理候条、宣被上聞候間、不能審候、恐々謹言。
十一月二十八日                  
 本間対馬守高季 
春日山            
 (和睦の事を仰せ下され、私共もそのように考えておりました。長い間の鬱憤がありますが何事も棄てて御上意に従います。敵方の河原田・吉井・潟上が貴方様のお考えに背くようであれば、それは全て私のせいではありません。)

また、上杉家御年譜でも、この件に触れており

佐州ノ将士本間對馬守高秀ノ書到来ス 抑佐州ノ士河原田 吉井 潟上 神保 羽茂等ハ謙信公ノ御代ヨリ御手ニ属シ 諸事御政道ニ違背セス 今モッテ御下知ヲ加ヘラル 然ル処ニ右ノ五士等武名ヲ背キケル間 来春ニ至リテ佐州へ渡海有て 御仕置を加へラルヘキトナリ 先佐州ノ属士本間對馬守ニ仰セ合サル 對馬守ハ謙信公ノ御代ヨリ今ニ至テ変心ナク越府ニ属シケレハ 先頃御書ヲ遣ハサレ軍議ヲシ玉フモ此ニ依テナリ 其返翰云

とあります。

再び、佐渡へ渡った後藤左京入道の工作が功を奏した結果です。
羽茂の本間高季は、何事(西三川砂金山)も棄てて御上意に従うとあります。
つまり、この時点で佐渡には、上杉景勝(秀吉)に歯向かう者は、猫の子1匹たりとも、いない状態となりました。
本来なら無血で佐渡金銀山は、景勝(秀吉)の手中に入ったはずです。謙信なら、そうしていたと思います。 しかし、兼続の案なのでしょうか、時代が違うとでもいうのでしょうか
この時点で和睦は成立しているのに、景勝は河原田、羽茂の両雄には和睦結果のことを告げずに、翌1589年(天正17年)上杉景勝は直江兼続を従え、佐渡を侵攻するのです。
戦のセオリーとはいえ、黄金の魔力が人を狂わすのでしょうか?

河原田の籠絡だけで良かった工作が、羽茂の動揺をよび、この返書により佐渡侵攻のXデーが加速されたのではないでしょうか。

佐渡侵攻を控え、河原田 高統は本当に景勝に従うのか、得心者の裏切りはないか、1589年(天正17年)3月、最終の勧説と判断を託された板倉式部少輔と南佐渡の諜報に廣泰寺の寶存が渡海します。

翌4月、富永備中守が河原田 高統・潟上 帰本斎・沢根 左馬助と羽茂攻略に向けた打ち合わせを行い、かくして佐渡侵攻のシナリオが完成したと推察されます。

7月7日エックスデー

1589年(天正17年)6月12日沢根湊(須川)に上陸した景勝・兼続。

潟上帰本斎は使者を送り、自らは動きません。業を煮やした景勝は14日「明後日(16日)に羽茂を攻めるから出て来い」と帰本斎に書状を送っています。

武勇伝は軍記物に譲るとして、天正17年6月16日・大挙して押し寄せて来る上杉・河原田勢の連合軍。迎え撃つ、羽茂 高貞・赤泊 高頼の心境はいかばかりであったでしょうか。

当然ながら、秀吉・景勝の縦ラインや景勝・兼続が上陸した情報は耳に入っていたと考えらます。
しかし、羽茂・高季は河原田勢の兵までは考えていたでしょうか。

羽茂勢の掃討が終了した6月下旬、景勝は八瀬が平の阿仏房(妙宣寺)に本間高滋の居城だった雑太城跡を払い下げ、兼続は妙宣寺を安堵、槍を奉納しています。

通説では京都・妙覚寺の日典聖人と親交のあった兼続が、景勝に願ってと云うことになっています。
しかし、兼続 ― 妙覚寺日典聖人 ― 阿仏房10世日帝。このラインだけで完結する内容には思えません。

怒涛の如く、押し寄せてくる上杉軍との攻防は佐渡島民にとっても未曾有の出来事でした。
6月16日の羽茂城攻略が終わって混沌とする佐渡の空気。特に、戦闘があった国府川を境に、南側の地域での動揺はひとしおだったと思われます。

そんな状況を払拭するには、島民に対して上杉(兼続)は安全・安心を与える、ありがたい新領主様だと思わせるのが一番です。

つまり、当時としては画期的な兼続のプロパガンダ施策と考えたほうが理にかないます。

羽茂城攻略から2週間足らずの6月29日、おごそかに執り行われたた兼続の儀式(妙宣寺の安堵と槍の奉納)は、島民に広く知れ渡ったことでしょう。

妙宣寺に残る、似かよる内容の書状、二つ(制札と安堵状)。兼続の、たぐいない卓越した戦略の片鱗がうかがえます。

上越市史 別編2(上杉文書集2)の586ページに、京都大学総合博物館所蔵の景勝文書が記載してあります。景勝が天正17年7月15日にしたためたとされるもので、同年7月7日にあった河原田の戦いで、功労した信濃衆の松本左馬助にわざわざ感状(感謝状)を送付しています。

上越市史 通史編2においても「翌7日には河原田表で一戦あり、勝利を得て、佐渡を制圧した。」と説明しいます。

また、1938年刊行の二宮村志に河原田・妙経寺の天正17年7月 日付の制札の写真が載っています。
7月7日の河原田の戦いに合わせて発給されたものと思われます。写真で見る限り、6月 日付の妙宣寺や慶宮寺に残る制札と御朱印の印文は同じです。趣は多少異なるものの、大きな違いは6月、7月の月だけです。

景勝の御朱印が押してある制札(安全保証書)の発給が計7札確認されています。

橘 正隆氏によれば上杉軍の侵攻経路を推察できる品であるとされます。
もし、通説の云うように、6月13日に河原田城で激戦が行われたとしたならば、妙経寺以外の佐和田地区にも6月 日付の制札が残るはずです。現に、雑太城付近には2状 (国分寺と妙宣寺) も残されています。家宝とも云える佐和田地区にあった景勝の御朱印状(制札)を総て、後世の人が紛失したとでも解せばよいのでしょうか。

国府川を挟んで、南側に6札(妙宣寺・国分寺・引田部神社・慶宮寺・目黒町・宿根木)。北側の妙経寺に1札。河原田勢側の妙経寺だけが7月です。

 

河原田 高統の誤算

数は推察にすぎませんが、上杉軍兵船都合1,000余艘、1艘に5人乗っていたとして上杉軍兵、計5,000名以上。これだけの戦慣れした猛者が大挙して行う計画された掃討作戦。

羽茂城主のように敵わず逃亡を考えるのも理解できます。
さて、この様な状況下において河原田城(高統)攻略に回を重ねたとは考えられません。

短期決戦・一日で完了したと考えるのが普通と思います。河原田城攻略日は天正17年7月7日の一日のみ(高統は7月6日まで生きていた)とすると、7月20日に景勝が佐竹義重に宛てた書状「…根本人羽茂三州一類…」の内容もひも解けます。

つまり、高統(河原田勢)は景勝と同盟を結んで、羽茂城主をはじめとする敵対する羽茂勢の掃討を謀って本懐をとげたつもりでしたが

結果的に天正17年7月7日、兼続の采配する上杉軍の奇襲を受け、高統は散っていった。と云う図式です。

当時、佐渡の中で、この実情をよく知っていた人と云えば、沢根 本間左馬助です。

しかし、彼は恩賞として中奥の地を貰ったにもかかわらず、姓を変え景勝を慕い越後に移っていきました。橘氏の言葉を借りれば、「世のにくしみを買い。他出でもしたものか。」とあります。

また、潟上帰本斎の景勝渡海時に動かなかった理由もそのあたりにあるのではないでしょうか。そして、彼も姓を変え、景勝について行き佐渡を離れます。

 

佐渡金山の礎

軍奉行として采配を振るい佐渡平定を成し遂げた、直江兼続。彼の卓越した手腕は、戦後処理方法においても読み取れます。

平定後の代官に青柳隼人の名前があります。
青柳隼人政宗安。二宮村志によると昭和10年河原田尋常高等小学校々舎改築に際し、青柳氏の墓が発掘されたとし、系図を載せてあります。また、佐和田町史には、「信州出身である。筑摩郡青柳村あたりの出であろうか。」としています。

しかし、上越市史通史編2の直江信綱の欄には、『信綱の家中である与板衆には、直江一族の直江式部・…他にも長田・梅沢・青柳などの「直江家老の輩」や、志田・力丸・篠井などの「直江一家の侍」がいた』とあります。

また、執政兼続と与板衆の欄では『…羽茂には黒金安芸守・清水内蔵助ら上田衆を城主としておいたが、年貢の徴収などを担当したのは青柳隼人であり、翌18年12月以降、黒印を捺した年貢請取状を発給する。青柳隼人が佐渡の蔵奉行であった。青柳隼人は「文禄3年定納員数目録」では与板衆ではなく「佐渡衆」として扱われているが、元来「直江家老の輩」である青柳氏の同族とみて間違いなかろう。』としています。

衆は別として、青柳隼人は、兼続の強い意志によって代官に抜擢され、佐渡占有における景勝・兼続の最大目的である産金銀の管理を託されたと推察されます。

佐渡相川郷土史事典の【あおやぎわれと 青柳割戸】の説明欄には、『「道遊の割戸」の旧名。…古い絵図では「青柳割戸」と記されていて、その割れ目の下の方に、「道遊」と記した坑口(釜ノ口)が描かれてある。…「青柳」が地質用語なのか、人名かはわかりにくいが、「青柳隼人」という人物が上杉氏の家老として佐渡に在勤していた。「宗太夫坑」が、大久保長安の家臣の岩下惣太郎に関係した坑名と推定できるので、青柳も人名と解したがよいと思われる。…(本間寅雄)』とあります。

二宮村志の青柳隼人の系図には、青柳隼人政宗安の子供3名の内、「青柳源三青氏(相川柴町専光寺葬)― 舎人宗正 ― 助左工門義宗(元禄16未年迄沢根御番所役)― 七太夫氏永 ― 浅右工門直道(河原田来迎寺葬)― 直左工門正次(五十里炭屋町住…)― … 」とあり、青柳隼人が佐渡を離れても、子孫が佐渡に残ったとしています。

青柳隼人の子、源三青氏は何を想い佐渡に残ったのでしょうか。父の携わった割戸を開発するためにと解釈するのは短絡すぎると云われるのでしょうか。

 

佐渡侵攻の目的

景勝・兼続の当初の目的はやはり、佐渡金銀山の占有であったと思われます。

しかし、1586年(天正14年)の初上洛で秀吉に臣従した以降は、秀吉の天下統一の根幹である「惣無事の儀」政策の一環としての位置づけとなります。

つまり、侵攻目的は私戦の禁止となり、また、その根底には「天正14年6月23日景勝に対する佐渡の仕置きの任命 = 金銀山は、公儀の御山たるべし」との考えが秀吉にあったものと推察されます。

秀吉の天下統一に対する筋目(義)への共鳴が景勝・兼続にあり、豊臣大名として円滑な産金銀の吸収が、兼続の命題であったのではないでしょうか。

 

 

※【惣無事令(そうぶじれい)】
1585年関白政権の樹立と同時に、秀吉は戦国大名間の領土紛争の豊臣裁判権による平和的解決を掲げて、すべての戦国の戦争を私戦として禁止する政策を「惣無事の儀」とよんで、九州をはじめとして関東・東北から朝鮮にまで及ぼしました。この惣無事令による領土裁定は、「当知行」つまり中世の領有関係の到達点を基準とし、「国分け」とよばれました。これを受諾して上洛した領主は豊臣大名として領土の知行を確定され、違反した領主は秀吉軍による「征伐」の制裁を受けましたが、滅ぼされたのは関東の北条氏だけでした。

 

証人たちの ささやき

証人1(制札)

420年前に書かれた制札。景勝の御朱印、印文「(タラーク)虚空蔵龍」が押されています。
制札とは、どう云うものでしょうか。

景勝・兼続は何状、佐渡で発給したのでしょうか。なぜ、日にちが記されてないのでしょうか。

佐渡に残存するほとんどの制札は各寺社にあります。制札を広辞苑で調べると、「禁令の箇条を記して、路傍または神社の境内などに立てる札」とあります。

また、「右筆(ゆう-ひつ)」と云う言葉(職種)があり、武家の秘書役を行う文官のことで、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となったとあります。

当時、制札は筆右が記し、兼続が朱印を捺したのでしょうか。佐渡によらず、制札に日にちを入れないことが圧倒的に多いらしく、右筆の慣習によるものと思われます。

佐渡に5つ(妙宣寺・国分寺・引田部神社・慶宮寺・妙経寺)、島外に2つ(目黒町=国立古文書館・宿根木=個人)、計7つの制札の発給が確認されています。(上越市史 調べ)

 

妙宣寺に残る制札を参考にしましと、内容は下記のように記されています。

 

妙宣寺制札

 

右、於当地、諸軍勢濫妨
みぎ とうちにおいて しょぐんぜいらんぼう

狼籍、并竹木剪採
ろうぜき、ならびに、たけぎせんさいの

事、堅令停止畢、若
こと、かたく、ていしせしめおわんぬ。もし

違犯之輩有之者、於立所
いはんのやから、これあるもの、たちどころにおいて

可加成敗之由、仰出被成
せいばいをくわうべきよし、おおせだし

御朱印者也、仍如件
ごしゅいんなさるものなり。よってけんのごとし

 

広辞苑で調べますと

【乱暴狼藉=荒々しく振る舞い、他人に危害を加えること。】
【畢んぬ=(オワリヌの音便)おわった。…してしまった。】  とあります。

制札の記載内容を今風に平たく訳せば、

「竹田村で、他人に危害を加えるような荒々しい行動や、竹や木を伐採することを禁止した。もし、違反するような人々がいれば、ただちに処罰する。」となります。

しかし、制札の【濫妨狼藉】の訳が広辞苑とは違うことを指摘してくれた人がいました。
目黒町の制札の写しが国立古文書館に存在することを教えてくれた、上越市公文書館準備室の福原圭一氏です。

福原氏によれば、一般に中世の制札とは、戦乱のなかで村々が自らを守るために手に入れるもので、基本的には有料(それもかなり高額)とのことで、藤木久志著「雑兵たちの戦場」と云う本が参考になると教えてくれました。

同書の中で、中世の濫妨狼藉の意味を探ると、

①乱取り(人や物を略奪する)
②放火(村を焼き払う)
③苅田(田畑の作物を荒らす)」とのことらしく、

その行為はおもに雑兵(ゾウヒョウ)が行い、作戦や軍率を乱さない限り、敵地での人や物の略奪は黙認状態(野放し)であったと云います。

戦国大名の軍隊は仮に100名の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい10名足らずで、
残りの90余名は3ランクに分かれていた雑兵であったと書かれています。

武士1名(騎馬1名)に対しての手下(雑兵)の序列と人員は

(※ 近世初期の加賀藩の場合)
A【若党】1~2名。主人と共に戦う侍。
(※広辞苑=武士の従者。近世には武家奉公人の最上位で、戦闘に参加したが馬に乗る資格のない軽輩を指す。)

B【小者】3~6名。主人を援けて馬を引き、槍を持つ人。
(※広辞苑=武家の雑役に使われる者。)

C【人夫】1~2名。村々から駆り出されて物を運ぶ百姓等。
ろくに報償等が貰えない彼ら雑兵にとって、戦でのメリットが濫妨狼藉であり、唯一の収入源であったとのことです。

 

天正18年4月27日、秀吉が景勝に宛てた御朱印状が新潟県史資料編3(316ね‐11)に載っている。秀吉の小田原攻めに際し、景勝は北国軍として大道寺政繁らの籠る松井田城を攻略した後の書状で、

其表之儀、利家((前田))相越、具申通、被聞召候、此中無由((油))断由、尤被思召候、仍国々地下人・百姓等、小田原町中之外、悉還住事、被仰付候条、可成其意候、然処、人を商買仕候由候、言悟((語))道断、無是非次第候、云売者、云買者、共以罪科不軽候、所詮、買置たる輩、早々本在所へ可返付候、於自今以後、堅被停止之間、下々厳重ニ可申付候也、
卯月廿七日           (朱印)
羽柴越後宰相中将 とのへ

とあり、秀吉が戦国大名に、人の乱取りと、売り買いを禁止しています。

また、天正18年(1590)8月 日付の秀吉が石田三成に宛てた御朱印状(京都府教育委員会「本法寺文書」)があります。

制札発給の金額を村の大きさ(大・中・小の3つに分けた)により公定したもので、

御制札御判銭掟
一、上之所者永楽銭三貫弐百文宛可上之事、
一、中之所者同弐貫弐百文可上之事、
一、下之所者同壱貫弐百文可上之事、此外ニ取次銭以下不可出之
一、御制札一ツニて村々数多有之所者、如右一在所宛上中下見計可上之事、
一、御判銭之儀者永楽ニても金子にても如相場可上之、筆切弐百宛儀者、一円ニ永楽にて可上之事、
右通堅可申付候、少も非分之儀有之者、可為曲事者也、
天正十八年八月 日   (朱印)
石田治部少輔 とのへ

とあり、下の村でも永楽銭で1,200枚、ただし取次銭(口利き代)は取るな、別に筆功料(書き代)200枚、御判銭(秀吉の朱印代)は相場まかせと記されています。

基本的に制札とは、もらう側の村や寺社が自衛手段として主体的に動き手に入れるもので、制札の発給を受けるには、かなりの大金が必要だったことがうかがい知れます。

改めて、制札に記されている語句の意味合いを整理すると、「諸軍勢」とは主に、敵の残党(佐渡・本間軍)ではなく、自軍(上杉軍)の雑兵に向けられた言葉であり、「濫妨狼藉」とは雑兵の行う3点セット「①乱取り(人や物を奪う)②苅田(田畑の作物を荒らす)③放火(村を焼き払う)」であることが理解できます。

上記の解釈で制札の記載内容を再度、平たく訳せば、
【上杉軍の兵士に申し渡す。この地(竹田村)で、人や物を略奪する事、人に危害を加える事、田畑の作物を荒らす事、村家に火を付ける事、竹や木を伐採する事を禁止した。もし、違反するような人々がいれば、ただちに処罰する。上杉軍奉行より。】 となります。

430年前の竹田村では、制札の発給に対して、いくら支払ったのでしょうか。
佐渡の場合、制札の費用、人の乱取り等に関し、史料では読み取れません。

別の視点に立てば、景勝・兼続(秀吉)の佐渡支配の最大目的は佐渡の産金銀の円滑な吸収です。

その労働力になりうる佐渡の民を乱取りさせるとは考えられません。逆に、金銀山開発(秀吉政権下での国益 = 産金銀の運上)に向けた戦後処理を考えれば、手厚く保護するように見せた方が(上杉軍は良く思われた方が)佐渡島民に対して、得策と兼続は考えたのではないでしょうか。
私が兼続なら、そうします。

証人2(菅原道真公)

四日町に時宗大願寺と云う奇妙(私見)な寺があります。時宗は浄土系で「南無阿弥陀仏」を称える宗旨ですが、本堂内に「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑があり、またお寺なのに鳥居があります。ご住職で大正大学講師の臼木悦生氏によりますと、

石碑の由来は日蓮の御真筆と言われており、石碑に触ったその手で目を触ると、目の病気が治るという噂が佐渡中に広まり、それがエスカレートして題目の部分を削って飲む人が出てくるようになり、見かねた当時の住職が本堂に移したとの事です。

当時大願寺では、朝は「南無妙法蓮華経」夕は「南無阿弥陀仏」と唱えていたとのことです。事実、本堂で石碑を見ると表面が削られていて、題目の文字がわかりにくくなっています。

さて、証人の話ですが、鳥居の前に天満宮と記された立札があり、階段を上がると菅原道真公の像(神体)を祀ってあります。ご住職の話によりますと、佐渡志にも伝承が書かれているとのことで、

佐渡天正の役の際、大願寺から道真公の像を上杉景勝が持ち去り
①越後の象王村 極楽寺に遷した。その後河村彦左衛門が夢の告げで
②佐渡の二宮 観喜寺に移し、さらに
③相川 丸山、
④慶長10年、相川弥十郎町、
⑤慶長13年、相川 大願寺、そして明治になり廃仏毀釈で相川大願寺が無くなった後、四日町 大願寺に戻ったと云います。

現在では菅原道真は学問の神様と云われていますが、当時は朝廷に祟りをなし天神として祀られ、武に強い神様と言われていたと云います。

また、大願寺の南東付近一帯の地名が「陣場(じんば)」と云われており、羽茂勢の陣地の址で、陣場では激戦を裏付けるかのようにおびただしい人骨が出土しており、昭和の中頃まで田圃から人骨が出ていたと云います。

陣所となっていた大願寺は上杉軍の焼き討ちにあっており、真野町史によりますと大願寺の再建は奉行大久保長安によって、慶長14年(1609年)におこなわれています。

しかし、焼け討ちにあっても本尊の阿弥陀仏如来は焼失を免れており、ご住職の話によりますと焼き討ち後、上杉が大願寺を復興しており、今残る須弥壇は当時、景勝が寄進したものであると云います。これは伝承によると、大願寺襲来のあとそれに関わった上杉軍の兵士たちが不慮の死で何人も亡くなっていき、これは「大願寺の祟り」だということで復興・寄進したということです。

また、大願寺墓地のある丘の上に「敵味方供養塚」と呼ばれるお墓があります。佐渡天正の役で散っていった、上杉・佐渡の兵の亡骸を分け隔てなく埋葬したものです。

制札。敵味方供養塚・阿弥陀仏如来と須弥壇。兼続の愛と義が垣間見られる気がしてなりません。

 

おもな 参考(引用)文献・資料 (年代順)
1920日本経済史 第3巻/竹越與三郎
1927越佐史料/高橋義彦
1933金澤村誌稿本/金澤村教育委員会
1935佐渡大観/佐渡郡小学校長会
1938二宮村志/二宮村教育会
1959河崎村史料編年志/橘正隆
1960佐渡の古城址/山本仁
1966佐渡本間遺文櫻井家文書/下井積與
1972出雲崎編年史/佐藤吉太郎
1973佐渡叢書 第4巻/山本修之助
1974佐渡風土記/永井次芳
1974本法寺文書/京都府教育委員会
1976真野町史 上巻
1977上杉家御年譜/米沢温故会
1982新潟県史資料編3
1984新潟県史資料編5
1985豊臣平和令と戦国社会/藤木久志
1986佐渡国略記上巻/佐渡高等学校同窓会
1987新潟県史 通史編2
1987両津市誌
1988畑野町史 総篇 波多
1991佐和田町史 通史編2
1993出雲崎町史通史編上巻/出雲崎町史編纂委員会
1995雑兵たちの戦場/藤木久志
1997佐渡名勝志/新潟県立佐渡高等学校同窓会
2002佐渡相川郷土史事典/相川町史編纂委員会
2004上越市史 別編2/上越市史編さん委員会
2004上越市史 通史編2/上越市史編さん委員会
2008直江兼続にとっての佐渡/小菅徹也

(敬称略)

※ この記事は2009年1月にweb掲載したものです。公開ページ(ヤフージオシティーズ)が閉鎖されるにあたり、加筆修正しブログで再公開しました。