現在、佐渡は世界文化遺産登録に向け様々な取り組みをしております。
そもそも世界遺産のベースにあるものは何でしょうか?
タリバンのバーミヤン遺跡やISのパルミラ遺跡の破壊をみて、言うまでもなく「平和」という言葉が浮かびます。
戦争のない平和な世界があって 初めて成り立つ世界文化遺産だと思います。
振り返る歴史の中では 必ず代償あって平和があります。
それが文化です。佐渡の金銀山も同じです。
Remember Shishiga-jō
金を中心とする佐渡鉱山の遺産群の礎の中に HONMA がいたことを忘れないでください。
ここで今一度、Shishiga-jō = 獅子ヶ城 = 河原田城(現在の新潟県立佐渡高等学校)について関連のある、天地人の「佐渡天正の役」をおさらいしてみましょう。
なお、「佐渡天正の役」とは1589年天正17年の上杉景勝の佐渡平定のことを指します。
「佐渡天正の役」のおさらい
1120年代に成立したといわれる、今昔物語の巻二十六宿報譚十五話「能登国堀鉄者行佐渡国堀金語」に佐渡で金が採れることが書かれています。西三川砂金山のことです。
その後、1542年に鶴子銀山、1543年に滝沢銀山(新穂銀山)が始まったとされています。
そして西三川砂金山は羽茂城主・本間高貞、鶴子銀山は沢根城主・本間永州、新穂銀山を潟上城主・本間喜本斎秀高が領有していました。
1559年に上杉謙信が佐渡産の金銀を京洛の諸所に贈与したことが上杉家御年譜に記されています。
「 … 此悉ク分内佐州ノ産ニシテ年々ニ其産限リナシ … 」
この30年後の1589年に佐渡金銀山の歴史が大きく動くことになります。
佐渡金銀山の歴史が動く前に転機が、3つあります。
佐渡金銀山の歴史が動く転機
①1578年に長尾景虎(上杉謙信)が逝去したこと
義を重んじる上杉謙信に佐渡の地頭(城主)達は忠誠を尽くしていたことと思われます。当時の佐渡は河原田と羽茂が二大勢力に台頭してきたとはいえ、産金銀の運用(上納)も含め、謙信と佐渡の地頭達はウインウインの関係であったと推察されます。
謙信と羽茂、沢根、潟上の地頭達は産金銀の上納額をどのように決めていたのでしょうか?
いずれにしても双方納得のいく額であったと思われます。
しかし謙信亡き後、越後と佐渡双方向でパワーバランスが崩れたのが要因で、沢根や潟上を含む河原田勢(北佐渡連合)VS羽茂勢(南佐渡連合)の図式が色濃くなりました。
②1582年4月に上杉景勝が織田信長と雌雄を決すべく、佐渡駐留の越後兵を皆引き揚げさせたこと
(同年6月本能寺の変)『木村正辞氏所蔵文書/越佐資料/河崎村資料編年志』
御建ての乱後、景勝は佐渡の産金銀の上納がスムーズに進むよう、春日山の兵士を佐渡に駐留させていました。やはり、謙信亡き後は、春日山の考え方や雰囲気が変わったのだと思います。
尚、景勝は7名の地頭へ本能寺の変を通達しています。この7名が景勝が重要と思う佐渡の面々とも言えます。
本間対馬守(羽茂・高季) | 本間但馬守(新穂) | 本間信濃守(雑太・高泰) |
本間弥太郎(和泉・季直) | 本間下総守(久知・時泰) | 本間帰本斉(潟上・秀高) |
本間山城守(河原田・高統) | 『本間文書/越佐資料/河崎村資料編年志』 |
※ 本間山城守のことを、『新潟県史』では「雑太城主か」としていますが、『河崎村資料編年志』では、河原田城主としています。
③1582年の冬、秀吉から景勝に連携の申し入れがあったこと
『新潟県史通史編2』
このときに佐渡金銀山は秀吉の手中に入ったといっても過言ではないと思います。
今までは産金銀の運用は、上杉と佐渡だけの話で良かったものが、頂点に秀吉が入ったことにより、謙信から続く、佐渡産金銀の運用方法が崩れた年でもあります。
しかし、それでも佐渡の地頭達が産金銀の権利を放棄し、景勝に平伏していれば、佐渡天正の役の出来事はなかったと思います。
やはり黄金の魅力とは恐ろしいものです。この3つの必然の転機により、時代は動いていくのです。
また、1584年8月16日付の直江兼続に宛てた増田長盛と石田三成の連署状(覚書)があります。
『景勝公諸士来書/上越市史別編2』
とあり、景勝と兼続が必死で佐渡・出羽の領有について秀吉に働き掛けを行っていたことが推察されます。
使者と云う名の篭絡(ろうらく)
※ 【篭絡】ろう-らく(うまくまるめこんで自分の思う通りにあやつること)
景勝は佐渡の領有を確信し、同年(1584天正12年)8月22日に河原田城主の本間山城守(高統)に、羽茂と和睦をしなさいと、後藤左京入道を使者として派遣①します。
しかし、この時点で秀吉と景勝の間で、佐渡金銀山の上納額の取り決めも整っていたと思われます。その中に佐渡勢の取り分があるはずがありません。それ故に景勝は河原田に使者を送ったのだと思います。
河原田への落としどころは山城守ですから、本間のプライドでしょうか?いずれにせよ、上杉の佐渡侵攻への工作が本格的に行われました。
1586年上洛した景勝は秀吉より佐渡成敗方を許す直書を賜っています。『新潟県史資料編3』
これで上杉の佐渡侵攻のシナリオが完成です。
1588年(天正16年)、景勝は上洛後帰国の途中で再び、佐渡へ後藤左京入道を派遣②しています。
この頃すでに、佐渡側では工作が奏したのか、潟上本間、久地本間、沢根本間なと上杉の軍門に下る城主が多いです。多分、河原田本間も1584年の後藤左京入道の工作により、景勝の軍門に下りていたと推察されます。
(1回目は河原田の篭絡、2回目は羽茂の篭絡に成功しています。恐るべし左京入道)
誰が考えれも、力の差は歴然です。秀吉イコール景勝に対し、どんな武将でさえ、敵うわけがありません。
この状況下で、上杉に歯向かう者など居るはずがありません。
1588年11月28日、羽茂城主 本間対馬守高季は、河原田と和睦了承の件を春日山に答報しています。
御貴札之趣拝見、欣悦至極奉存候、仍而当国和睦之段被仰下候、拙者一門各奉存其旨、雖古今之欝憤候、抛諸事可任御上意候処、敵方河原田・吉井・潟上被背御尊意、承引不被申事、全拙夫非疎略候。然而御貴州弥以御繁昌之由珍重存候、委曲直江山城守へ申理候条、宣被上聞候間、不能審候、恐々謹言。
十一月二十八日
本間対馬守高季
春日山
また、上杉家御年譜でも、この件に触れており
とあります。
再び、佐渡へ渡った後藤左京入道の工作が功を奏した結果です。
羽茂の本間高季は、何事(西三川砂金山)も棄てて御上意に従うとあります。
つまり、この時点で佐渡には、上杉景勝(秀吉)に歯向かう者は、猫の子1匹たりとも、いない状態となりました。
本来なら無血で佐渡金銀山は、景勝(秀吉)の手中に入ったはずです。謙信なら、そうしていたと思います。
しかし、兼続の案なのでしょうか、時代が違うとでもいうのでしょうか
この時点で和睦は成立しているのに、景勝は河原田、羽茂の両雄には和睦結果のことを告げずに、翌1589年(天正17年)上杉景勝は直江兼続を従え、佐渡を侵攻するのです。
戦のセオリーとはいえ、黄金の魔力が人を狂わすのでしょうか?
史料で見る1589年(天正17年)景勝・兼続の佐渡侵攻
①天正17年6月14日付けの景勝が潟上帰本斎に宛てた書状
②天正17年7月20日付けの景勝が佐竹次郎(義重)に宛てた書状
※ ①②で景勝が6月12日に佐渡に到着したことがわかります。
①の14日に記した文で、到着を聞いた潟上本間は、本人ではなく使いの者を挨拶に伺わせたことがわかります。そして、16日に羽茂を攻撃するから、潟上本間に本人出陣を要請しています。
②で16日に大規模な戦闘があったことがわかります。
しかし、河原田への攻撃はいつ行われたのでしょうか?①の内容からしても不可解です。本当に6月13日でしょうか?
③6月、上杉軍奉行(兼続)が制札(安全保証書)を各所に掲げる
(宿根木・国分寺・宮川 ・竹田村・金丸・目黒町)
『上越市史別編2』
佐渡に残る6月付けの制札
妙宣寺 | 国分寺 | 引田部神社 |
慶宮寺 | 目黒街 | 宿根木 |
④天正17年7月15日付けの景勝が松本房繁(義重)に宛てた書状
『京都大学総合博物館所蔵/新潟県史資料編5』P.873
⑤河原田 妙経寺に残る7月付けの制札
『妙経寺所蔵/新潟県史資料編5・上越市史別編2』
右、於当地諸軍勢濫妨狼藉并竹木剪採事、堅令停止畢、若違犯之輩有之者、於立所加成敗之由、被成 御朱印者也、仍如件、 天正十七年七月 日 奉行中 |
河原田 妙経寺 制札
この河原田の妙経寺に残る制札だけが7月付です。④と ⑤で、天正17年7月7日に河原田で戦いがあったことを示しています。
「佐渡天正の役」のまとめ
このような状況証拠から、合理的に考えれば河原田城の陥落は6月13日ではなく、7月7日です。
後藤左京入道の篭絡など、当時も今も佐渡の人は正直ですから!?兼続さんのことを「愛を重んじ、義を貫き通す武将」だと思い込んでいたのでしょうか?
以上から、河原田の本間高統は6月16日には存命であったと思われます。それが羽茂の呼称「根本人羽茂三州一類」の意味になります。
もしかすると、6月16日以降の6月中に景勝、兼続、高統の三名は河原田城で祝杯を挙げていたかも知れません。
したがいまして、この天正17年7月7日が上杉佐渡平定完了の日であり、佐渡金銀山の歴史が動きだした日でもあります。
それにしても、「根本人羽茂三州一類」には、やるせない気持ちになります。
前年11月28日付けの羽茂本間の和睦了承の文があるから、なおさらです。
以上、佐渡天正の役の復習でした。 あと、史実とは関係のない話で恐縮ですが、漫画の「花の慶次-雲のかなたに-」の10巻を見て憤りを覚えたのは私だけでしょうか?
いづれにせよ、この佐渡天正の役を契機に、兼続の卓越した手腕により、鶴子銀山をはじめ佐渡金銀山の歴史が大きく前進しました。
佐渡金山の「道遊の割戸」も昔は「青柳の割戸」と言われており、兼続の配下の青柳隼人政宗安の名前がついたものと思われます。
(秀吉も含め)兼続らが佐渡金銀山の礎を築いたことは、まぎれもない事実です。そして彼らの手腕を引き継いだ徳川幕領(天領)政策で、名実ともに佐渡金銀山の黄金時代が花開くのです。まさに黄金の国ジパングの到来です。
Remember Shishiga-jō
今から430年前の1589年(天正17年)佐渡は上杉景勝によって平定されました。
天地人で直江兼続が注目された、佐渡天正の役の出来事です。
この時代、西三川砂金山を領有する羽茂城主・本間高貞、鶴子銀山を有する沢根城主・本間永州、新穂銀山の潟上城主・本間喜本斎秀高など、佐渡の城主22名中、13名が本間でした。(佐渡国略記)
そして、天正17年7月7日は、本間高統(タカツナ)が城主だった河原田城(獅子ヶ城)が陥落した日になります。
言い換えれば、秀吉の意である「金銀山は、公儀の御山たるべし」の元、秀吉の天下統一という大きな枠組みの中、佐渡への侵攻は必然であり、豊臣大名として佐渡の産金銀の円滑な吸収は上杉にとって必要不可欠な命題でありました。
その後、秀吉の命により金銀の運上納入を任された兼続は金山法度五箇条を発令。石見から見立人を招聘等、新たな開発が行われました。
そして この流れが徳川の金山経営へと伝わっていくのです。
佐渡の金銀山。振り返れば、そこには時代に翻弄された本間がいました。
佐渡の世界遺産登録を語るとき、天正17年に本間がいたことを忘れないで下さい。
Remember Shishiga-jō. 1589年.本間がいて、今があります。
そして世界遺産登録を手にする、明日につながります。
2019年は天正17年からちょうど430年後となり、節目の年です。
そして、世界遺産登録を手にする年にしなければなりません。
Remember Shishiga-jō.
2019年。佐渡はHONMAの年です。佐渡を世界遺産に!
ホンマでっか!? 本間です年。
佐渡の史料、橘正隆(1959)『河崎村史料編年志 佐渡島中世迄のおいたち』河崎公民館. によりますと
「文永六年 1269 四月の下行札に、当地頭本間山城云々、と記されたのが、佐渡に於ける本間文証の初見である」とあります。
その行下札には
「(表)正四位下行。(裏)当地頭本間山城口口入道口口」 | |
「(表)正四位下行。(裏)文永六年巳四月廿二日」□ □□ |
と記されており
註釈として「これを土地の人は下行札とよんで居り、或は住吉神社の分霊が渡った時のものとも、又は公用船の標識札ともいわれている。恐らくは、公用船の家形にかけて、その標識としたものらしく、このとき北条宣時が佐渡視察に渡島した訳ではなかろうか。本間山城兵衛入道とは、(略)」とあります。
また、畑野町史編さん委員会(1982)『畑野町史 松ケ崎篇 万都佐木』畑野町, でも
「松ケ崎郷土誌資料の記載では、松前神社の開創年暦縁起かも知れない木札」とのことで、
「当地頭本間山城口口口長政」 とあります。
下行札(畑野町史 松ケ崎篇 万都佐木より転載) |
河崎村史料編年志は13文字。松ヶ崎郷土誌資料は12文字で、文字数も、読み方も異なりますが、いずれにせよ 今から750年前、 文永6年4月22日と書かれた木札です。
ホンマでっか!?
尚、文永6年4月22日を西暦に換算しますと1269年5月31日になります。そうすると、2019年5月31日金曜日が、佐渡に本間の文字が出現してからちょうど750年目の記念日です。
ですから2019年の佐渡は、「ホンマでっか!?本間です年。」の節目の年です。2019年の佐渡は750th Anniversary です。クラッカーを鳴らし、くす玉を引き、地酒で乾杯したい、めでたい年なのです。
そして、前述のように文永6年(1259年)から320年後の天正17年(1589年)7月7日は、
本間高統(タカツナ)が城主だった河原田城(獅子ヶ城)が、天地人の上杉軍に攻略された日です。
この時代、西三川砂金山を領有する羽茂城主・本間高貞や沢根城主・本間永州、潟上城主・本間喜本斎秀高など、佐渡の城主22名中、13名が本間でした(佐渡国略記)。
また、承久の乱で活躍し順徳上皇にかかわったのも本間です。
さらに、日蓮聖人が流されたときの佐渡守護代も本間です。
このような関係から、佐渡には本間姓が多いのです。
文永6年の・本間文字の登場から750年後、
【佐渡天正の役】から430年後 の
2019年の佐渡には
宿泊施設や観光施設、交通機関など、おもてなしの最前線に「本間」は大勢います。
社長や支配人や部長課長の役者職だけではなく、仲居さんに店員さんや乗務員さんなど言い換えれば、みんな 組織や会社を代表する守護代です。
2019年は、そんな彼らが輝く年でもあります。
何かできるぞ、本間です年。2019年 佐渡。
さあ、みんな! あかるい明日が、そこまで来てるぞ! Let’s grab the dream!!
|
2019年5月1日からは、新しい元号になります。
新元号の口口元年5月31日金曜日が、佐渡に本間の文字が登場してから ちょうど750年。
2019年8月17日土曜日が、河原田城(獅子ヶ城)が攻略された、佐渡天正の役から 丁度430年目です。この佐渡天正の役は、佐渡金銀山の歴史が一歩前に大きく動いた年でもあります。
当時の和暦の日付ですと、4/22(月)(本間文字の日)・6/16(土)(羽茂攻略の日)・7/7(日)(河原田攻略の日)です。
西暦に直しますと、6/5(火)(本間文字の日)・7/28(土)(羽茂攻略の日)・8/17(土)(河原田攻略の日)となり、記念日候補です。
めげずに今一度、世界遺産登録の機運を盛り上げましょう。
Remember Shishiga-jō.
2019年。佐渡はHONMAの年です。佐渡を世界遺産に!